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創作BL小説『きみのそばで時を刻む』
誰にだってあるだろう。
心に沈めていても、なにかのきっかけで輪郭が露わになる思い出が。
私もそんなものを抱えている。
忘れたい過去ではなかった。
しかし三十代の私にとって、あまりにも甘く遠い昔のことだった。
あのまま彼に身を任せていたら、私は東京でいっぱしの作家になることはなかっただろう。
彼と交わした言葉。
私の唇と指先が味わった、彼の熱。
彼が友人には決して見せない、男の顔。
そして、彼が一方的に私に押しつけたメッセージ。
彼と別れて十年余りが過ぎた。
腕時計が秒針を刻むごとに、彼と過ごした夜は切ない記憶へと昇華していった。
青春を捨てなくてはいけない年頃の男ふたりが、浮かれて道を外れそうになった、ひと夜の出来事。
そう思い、ひとりで生きていけばよかった。
彼――沢木真昼から手紙が届くまでは。
――――――――――
植野旭さま
きみへ手紙を書くのは二通目か。
……いや、あんな走り書きは手紙とはいえないかもしれない。
僕はきみと別れてから、随分と欲張りになってしまった。
親父から継いだワイン畑を広げることはさすがにしなかったが、敷地にレストランをオープンさせた。きみは東京で美味いものを食べているんだろう? その鍛えた味覚で、僕のレストランが通用するか確かめてほしい。
……というのは、この手紙を書くための都合の用件だ。
あの夜のことを、僕は忘れていない。
きみもそうなら、僕が造ったこのワインを持ってホテルまで来てほしい。いま、仕事のために東京に来ている。
『ソル・レヴェンテ』
このワインは、イタリア語で『朝日』という名前だ。
植野。僕は欲張りになってしまったんだ。
きみに会いたい。
――――――――――
居間のソファに座り、沢木からの手紙を読んだ。左手には、いつものようにネイビーの文字盤の腕時計をつけている。この腕時計はずっと私のそばにあった。手紙の続きに目を通す。
――――――――――
突然、手紙が届いてびっくりしただろう。
あれが見つかってからだ。
僕がきみを夢で抱くようになったのは。
老人ホームへ行くことになった親父に、何か部屋に置きたいものはないかと聞いたんだ。
親父は何かを言いかけてやめた。気がかりになり、親父の書斎にある机の引き出しを探ったら見つけた。
一枚の便箋……僕がきみに残したあの手紙と同じマークが印されていた。親父も泊まったんだろうな、あのホテルに。
便箋には、こうあった。たったひとことだけ。
『女にしてくれてありがとう』
おふくろの字なのかはわからない。もう亡くなったおふくろは筆不精で、日記や予定を書く習慣がなかった。
それでも若い頃は、こんなことを書く女だったのかもしれない。
親父には聞けずにいる。便箋はいまでも家にある。
あの日、きみの枕元に置いた手紙。まだきみの手元にあるのだろうか。
僕との夜を悔いているなら、すぐに捨ててくれ。この手紙とともに。
そんなことがないと祈るが……もしきみが不慮の事故に遭えば、誰かが僕らのただならぬ関係を暴くかもしれない。
手紙を捨てることになり、僕に会わないことを選んでも。
このワインは飲んでほしい。
僕の半身ともいえるワインが、きみの身体を駆けめぐる。
きみを愛した僕にとってこんなに嬉しいことはない。
きみと過ごした夜は過ちではなかった。その思いは、昔もいまも変わらない。
会えるのなら……。
あの日の約束を、僕が勝手にきみと結んだ約束を果たそう。
沢木真昼
――――――――――
「答えはわかってるだろ、沢木」
私は手紙をテーブルに置くと、手帳に挟んである折りたたんだ便箋を広げた。白百合のエンボス加工が施されている。沢木が父親の書斎で見つけたものと同じデザインのはずだ。
沢木の言う通り、この言葉を誰かに知られたら私たちの関係は明るみになるだろう。
しかし、私は家に置くことなどしなかった。
一線を超えなくても、あの夜、沢木はさまざまなことを私の肌に残してくれた。
その翌朝に彼が書いた文字は、彼が指先で私を愛した跡のように思えた。
ときおり文字を指でなぞり、支えにして私は生きてきた。
――――――――――
植野へ
高いホテルにレターセットがあるというのは本当なんだな。せっかくだから、きみに手紙を書く。
先にひとりで帰ることにしてすまない。「楽しい卒業旅行が台無しではないか」と、きみは怒るだろう。許してほしい。
ゆうべ、きみとふたりで初めて寝た。
あの瞬間まで、僕は自分が、きみをそんな対象で見ているとはわからなかった。自覚していれば、きみを泊まりがけの旅行には誘わなかった。
きみにふれて、僕は不安になった。
僕の求めに、怯えつつもきみは応じた。「眠くなったからやめよう」と僕が嘘をつかなかったら……きみと僕は、もう友達には戻れなくなっていただろう。
まったく。このままだと、東京でいろんな奴に食われるぞ。女にも。男にも。
僕はきみの寝顔を見ながら、一晩考えた。
きみにはお守りが必要だ。
大学の入学祝いにお揃いで買った数量限定モデルの腕時計。
シリアルナンバーを確認してくれ。ひとつずれているだろ?
きみのと僕のを取り替えた。
僕の腕時計を東京まで持っていってくれ。
きみが「あのお姉さん、かわいいなあ」、「このお兄さん、素敵だなあ」と流されそうになったら、腕時計がきみの左手首を締めつけて警告する。
「もっと自分を大事にしろよ」と。
これが、きみへのはなむけの言葉だ。
昼になると学生食堂の人波に気後れしていつもコンビニに走っていたきみが、人、人、人の東京でやっていけるんだろうか。
まあ、僕が心配しても仕方がない。決めたのはきみだ。
新人賞を獲ったのだから、きみの夢は絵空事ではない。数ヶ月後には出版されるんだから、きみはもう立派な作家だ。
植野。
もし東京の空気が合わなかったら。
いっしょにワインを造ろう。
きみの身体に指を滑らせたとき、ワインの名前が浮かんだ。
僕は甘い余韻が残る酒を作りたい。ワインができたら、きみに贈る。その頃には腕時計を交換しよう。
その日まで、僕だと思って離さないでくれ。
沢木真昼
――――――――――
私は腕時計の文字盤に唇を落とした。沢木と別れてからついた癖だ。
彼の手紙にあったスマホの番号に、私は電話をかけた。
【了】
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