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泥の河を読み終えて、格差社会を考える

※この記事は泥の河、パラサイト半地下の家族のネタバレを含みます。

おはようございます。

少し前にミーミーさんが紹介してくださっていた宮本輝さん。

その中で、僕の大好きな太宰治さんゆかりの太宰治賞を受賞した『泥の河』が気になり、読んでみることにしました。


あらすじ

終戦後の大阪が舞台。川沿いにうどん屋を構える家族。小学生の息子の信雄が主人公だ。

信雄はとある日、喜一という少年と知り合い友人となる。

喜一の家族は、河に浮かぶボロ舟での生活を余儀なくされている。喜一の父親は病気で亡くなっている。母は喜一と娘の銀子の生活のために、舟の中で体を売って生計を立てている。

そんな二つの家族の話。


読み終えてすぐ考えたことは格差社会についてだった。

この本の中でも格差が感じられた。

現代でも格差社会が拡大している。貧富の差が大きくなっている。と益々叫ばれている。

格差と聞くと、お金を持っている人が幸せで、貧乏な人は不幸せと安直に区分してしまう。

では本当に貧乏な人は不幸せなのだろうか?格差の何が問題なのか?この問いへのヒントが『泥の河』にはある気がした。

考えた結果、格差社会の問題を是正するために必要なことは、二つだと、今の僕は導き出した。

一つは、その立場に立っている人を同情するのでは無く、尊重してあげようと努力すること。

もう一つは、無意識であっても偏見してしまうことを自覚しておくことだ。


まず無意識の偏見について触れていきたい。

この物語でいうと、主人公の信雄家は富豪とまではいかないが、うどん屋もそこそこに繁盛していてそこまで貧乏では無い。

一方で喜一家はボロ舟での生活を余儀なくされる程に貧乏。

信雄家の両親はとても心温かい人だ。

両親ともに、喜一家の母親が体を売っているからといって、偏見をせず、信雄の友達として、喜一も妹の銀子も快く家に招き入れた。

世間が皆、信雄家のようであれば良い。

だが、現実はそうではない。

悪気があろうと無かろうと偏見の目が喜一家を襲う。

作中でも、うどん屋の客が喜一に向かって、

「お前は、あの体売ってる女んとこの息子か?たまに客引きも手伝ってるらしいな。」

と汚らしいものを侮蔑し、嘲笑うかのように吐き捨てる。

大人でもこうなのだから子供はもっと正直だ。

この辺りをしきっている双子の兄弟が喜一を見て

「お前のお母はん、パンパンやろ。お前らみたいなんが近くにおったら気色悪いわ。はよここから出ていけ、汚らしい。」

と直接的な言葉で侮辱する。

喜一は何度も何度もこう言った言葉を浴びせかけられてきたのだ。

ああやって直接言葉で。

そして直接では無くても侮蔑や蔑んだ目で喜一は見られてきたのだ。

そのことが、知らず知らずのうちに幼い喜一の心を壊していく。

喜一は、雛を手で潰して殺すことも平気でするし、蟹に油を飲ませ火をつけて殺すことも平気でする少年になってしまっている。

もしかしたら将来喜一は心の屈折度合いが増してしまい、人を殺してしまうかもしれない。

人を殺めた喜一を見て、周囲は、ほらみろ、あんな母親に育てられた子など、ろくな育ち方しないんだ。と陰口を叩くだろう。

だが1人の少年をそこまで追い込んだのは誰だ?

それは喜一より、自分達は豊かだと思っている奴らではないのか。

奴らの偏見の眼差しが、1人の少年の心を壊したのでは無いのか?

無意識の偏見が人の心を壊す。このことを強く意識させられた作品がもう一つある。

それが『パラサイト半地下の家族』だ。

ここに出てくる家族も、喜一達と同じように、台風が来れば家を失うような、地下に住んでいる。(ここではわかりやすく貧困街と名称させていただきます。)

貧困街に住むこの作品の主役の家族は、お金持ちの一家を騙して、一家の召使いや家庭教師として雇われていく。

上手く外見をこ綺麗にするのだが、貧困街で漂う独特の匂いが彼ら家族の体にこびりついてしまっている。

どんなに洗っても取れない貧困の匂い。

それを無意識にお金持ち一家は嫌悪する。

なんだこの匂いは?と。

その表情はこれまで幾度ともなく自分達に向けられてきた偏見の眼差しだ。

どう繕ってもこの偏見の眼差しからは逃れられない。そう悟った家族の父親は、最後は金持ち一家の父親を殺してしまう。

無意識の偏見が生み出した悲劇だ。

こうやって僕たちは無意識であっても偏見してしまうのだ。

このことを自覚するだけでも、格差社会を是正する一歩になるのではないか。

そしてもう一つの是正手段、

その立場に立っている人を同情するのでは無く、尊重してあげようと努力すること。

についても僕の実体験に基づいて話させてほしい。

僕は昔、父親が数年前に他界してしまった女の子と付き合っていたことがある。

彼女の人生は不幸の連続であった。

父親が亡くなっただけでも悲しいことなのに、父親が残してくれた遺産を従兄弟に騙し取られていたのだ。

だから僕が彼女に出会った時、彼女は母親とおばあちゃんと三人で市営住宅の小さな部屋で身を寄せ合って暮らしていた。

それに彼女は自分に自信も持てていなかった。

「中卒の私はバカだから無理だよ。」

が彼女の口癖だった。

それを言う度に僕は、君はバカじゃない、なんだってできるよ!と励まし続けていた。

しかし彼女と別れることになってしまった少し前に彼女から言われてしまった。

貴方はいつも上から目線。同情の目を私たちに向けてきてたよね。それが辛かったのよ。と。

僕はそんなつもりは無かったが、確かに彼女のおかれた立場を同情してしまっていた。


同情。これが彼女にとってどれだけ辛いことかを知るよしもなく。


きっと泥の河に出てくる喜一一家も、侮蔑と同じくらい同情の眼差しを向けられてきただろう。父親を亡くし、母親もろくに働けない可哀想な家族。

その同情の目がどれだけ辛かったことか。

そこから少しだけでも救いだしたのが、信雄一家だ。

彼らがしたことは同情ではなかった。

尊重であった。


置かれた立場ではなく、喜一という少年を認識して迎え入れてあげていたのだ。

この意識こそが格差社会の問題を是正してくれることだなと感じたのだ。

格差はこれからも無くなりはしない。

だが貧しいとされる立場の人をただ同情するのではなく、貧しい中でも生きている彼らの生き方を尊重する。

逆もそうだ、裕福そうな人達だって、その人達なりの悩みを抱えているだろう。彼らを妬むのではなく、彼らの生き方も尊重する。

そうやって違う立場の人のことを理解しようと努めることが大切なのではないか。

泥の河をきっかけに、僕の中で、今、考えられる格差社会への答えが導き出された。

何がきっかけになるかわからない。

だからこれからも沢山の作品に触れていこう。

最後に、この作品に触れるきっかけを与えてくださったミーミーさんにもう一度お礼を。

ミーミーさん、素敵な作品の紹介ありがとうございました。

そして泥の河の他の人の感想を調べてみたら、僕の大好きなchiakiさんが、映画の方の泥の河を紹介してくださっていたので、最後に紹介しておきます。


終わり














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