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ルームミラー(ショートショート)

田植えが終わって間もない田んぼ、夏樹の街を映し出す。路肩の雑草は好き勝手に伸びている。夏樹は片側一車線の県道を真っ直ぐ進む。助手席では妻が手鏡片手に化粧を直している。ルームミラー越しには双子の娘が談笑している姿が見える。何気ない光景だが、幸せが充填されていく。

夏樹の実家に行く時、娘たちは普段よりも楽しそうだ。大好きなお爺ちゃんが大好物のお寿司を用意してくれている事を知っているからだ。大好きが詰められた方向に向かっているのだから、自然と声色も表情も明るくなる。

二人が座っている後部座席。かつては夏樹の特等席だった。都内の大学に合格して上京する時も、高校最後のバスケの試合に一秒も出場できなかった時も、母が運転する後部座席に夏樹は居た。運転中も食事中も母は余計なことを尋ねてはこなかった。ただ夏樹を笑顔で迎え入れ、笑顔で送り出した。夏樹は今、母の底知れぬ優しさを実感している。

そんな母が他界したのは今から八年前のことだ。三回忌の時にようやく母の持ち物の片付けをする気になった。母の部屋は六畳の和室。その小さな部屋を父と二人で使用していた。特に母の面影が残るのが化粧台だ。焦茶色の木材で作られた重厚な化粧台。母はいつもそこで化粧をしたり、ママ友と長電話したりしていた。

片付けの際に夏樹は初めて母の化粧台の椅子に腰掛けた。化粧台の鏡には夏樹の姿が映し出されていたのだが、鏡の中に母の存在を強く感じた。

娘たちにとってもこの化粧台は特別な物だ。実家に行く度に母にお願いして髪を結ってもらったり、軽くお化粧してもらったりしていた。今ではそうやって母にねだる事ができなくなってしまったが、今日は妻に頼んで久しぶりにあの化粧台で本格的な化粧をしてもらおう。二人共、きっと大喜びするばすだ。

上の空でいたら、信号機の無い横断歩道を横断している小学生を危うく引いてしまいそうになった。急ブレーキをかけ、なんとか間に合った。小学生二人は娘たちと年も見た目もよく似ていた。二人は自分が轢かれそうになったにも関わらず、こちらに深くお辞儀をしてその場を去った。

危うく子供を轢いてしまうところだった。高まる胸の鼓動を鎮めるため、路肩に一旦停止。そして夏樹と妻は泣いて、泣いて、泣き叫んだ。

夏樹と妻はこの日、この世から去ろうと決意していた。死ぬ為に実家のすぐ側、よく娘たちと遊んだ海に車ごと飛び込むつもりでいた。八年前のあの日。母が死んだあの日。強盗か何かもわからない獣が母と二人の娘の命を奪った。金品は何一つ盗まれていなかった。何が目的かわからず、犯人の行方も分からず八年があっという間に過ぎた。強く生きようと思った日もあった。しかし一年、一年ごとに生きる気力を失っていった。本気で死ぬ気だったのに。娘たちと瓜二つの少女を見て、まだこっちの世界に来ては駄目だよと怒られた気がしたのだ。枯れたと思った涙は止まらない。

ルームミラーに視線を移す。娘たちが大好きだったウサギのぬいぐるみが、ただただ、そこに座っている。

終わり(1165文字)





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