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たまご焼きの記憶

大阪の実家を離れ、東京へ出発する日、母は出がけにおにぎりを握ってくれた。なんの具だったか、どんなおにぎりだったのかも今となってはあまり覚えていない。けれどそこに、卵焼きが添えてあったことだけは、はっきりと覚えている。

中学も高校も弁当生活だったわたしは、母のつくる卵焼きを毎日食べて育った。それどころか、親の手伝いなどろくにせず、味噌汁ひとつまともに作ったこともなかったので、大学生になってもなお、母の弁当を持って通っていた。

正直に言って、母はとりわけ料理上手でもなく、凝った弁当があった記憶はない。
お気に入りのおかずと言って思い出すのは、粗挽きにしたエビをフライにしたものと、中にマヨネーズが入った照り焼きハンバーグ。どちらも冷凍食品である。
でも卵焼きだけは、母が作る味だった。甘くも、しょっぱくもない。だし巻きのようでだし巻きでない。どっちつかずの卵焼きは、そのままでも、ご飯と一緒に食べてもおいしい。一番好きなおかずだったし、6年間毎日のように食べても、飽きることはなかった。

その卵焼きを最後につくるなんて、母に意図があったかどうかはわからない。

わたしの部屋は、すでに荷物が運び出され、一足先に東京へと向かっている。あとはわたしが東京へ向かうだけだ。

あまり深く考えると思いがあふれてしまいそうで、わたしはコンビニの弁当を食べるのと同じくらいのテンションで、その卵焼きを食べた。

「食べ終わったら、そろそろ出た方がいいんちゃう?」

母の声に促され、2人で駅まで歩く。
なんの話をしただろう。「じゃあね、頑張ってね。しっかりね」。別れ際、母は涙目でわたしに一冊の小さなアルバムをもたせてくれた。いつもなら言う「いってきます」が、このときは言うことができなくて、「うん」と声を絞り出すのが精一杯だった。

改札越しに、母がずっとこっちを見ていたのが気配からも感じ取れた。一瞬だけふり返り、ささっと手を振ってわたしはホームへの階段を急いだ。

やがて滑り込んできた快速電車に乗り込むと、見慣れた駅がゆっくりと遠ざかっていく。線路脇で電車に向かって手を振る母の姿が見えた。

さっき渡されたアルバムをそっと開く。
一ヶ月ほど前に、最後の家族旅行と称して、父と母、妹との4人で行った伊勢旅行のアルバムだ。鳥羽の水族館でおどける妹、父の意味不明な自撮り、うたた寝をする母、みんなで囲む刺身盛り。一番終わりは、家族それぞれからのメッセージで締めくくられていた。

もう「ただいま」と言って帰る場所は、ついさっきまでいた、あの家じゃない。住み慣れた自宅が「実家」という存在に変わってしまった瞬間だった。

東京駅の改札の向こうには、一緒に暮らす彼が待っているだろう。でも、その改札を抜けるまで、それまでは旧姓のわたしでいたい。「いってきます」と言った、子どものままのわたしでいたい。
わたしはそこで初めて、おいおい泣いた。

毎年、結婚記念日が近づくと、東京に出てきた30歳の夏を思い出す。

今も変わらずわたしの好物は卵、なかでも一番は卵焼きである。

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