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田植えというセラピー

5月のある日曜日、埼玉の荒川沿いにある農園で田植えをさせてもらった。わたしはもちろん、夫も子どもたちも初めての経験である。

大人も子どもも素足になり、青空のもと、畦道を一列に並んで歩く。この時点で、もう非日常だ。想像以上にひんやりとした土や、草についた小さな水の粒。地球を足裏に感じながら、歩く、歩く。

いよいよ泥に足を突っ込むときがきた。みな、「ひゃー」とか「きゃー」とか言いながら、順番に田んぼに入っていく。はい次、はい次、と流れ作業のようにほかの人たちが入るのを目で追いながら、あっという間にわたしたちの番だ。虫がいるかも、やっぱりちょっと気持ち悪い、そんな躊躇するタイミングなど一切ない。その波に乗り、息子もわたしも、気付けば泥のなかにいた。

父親の手をかたく握り、緊張の面持ちで泥の中を歩いていく息子。彼の横顔を見ながら、わたしは、ちょっと涙ぐんでしまった。

息子は赤ちゃんの時から、手や足が汚れるのを嫌う子だった。1歳半で初めて行った海では、ぎゅっとわたしにしがみついて離れず、砂浜に降り立つのをかたくなに拒否した。次の日も、その次の日もチャレンジしてみたけれど、彼は絶対に砂を踏まず、終始レジャーシートの上で過ごした。せっかく用意した水着も、ニコニコした亀の浮き輪も、一度も水に浸かることなく初めての海は終わってしまった。

こんなこともあった。保育園の保護者会で見せてもらった、子どもたちの普段の姿を収めた動画。折り紙を貼る制作風景のなかで、糊を触るたびに指を何度も何度も拭う子がいた。もちろん息子である。

そんな具合なので、この日も、農園に行き着くまでの砂利道で「サンダルに砂が入った」と、すでに不機嫌。このあと泥に足を突っ込むだなんて知ったら、ひっくりかえるんじゃなかろうか。怒りのあまりパニックになったらどうしよう……とハラハラしていたのだ。

泥の感触は、水の中とも、砂場の中とも違う、無重力みたいな不思議な感覚だった。恐る恐る踏み入れ、体重をゆっくりとかけていくと、泥は想像以上に冷たく、ぬっとり、ぺっとりと足にまとわりつく。ずぶずぶと沈んでいく自分の足。

ゆっくりと泥を掻き分けるようにして歩きながら、自分の皮膚と泥とがぴたっとくっついて一体となるのを感じる。わたしも、田んぼの中にいるカエルや、そのほか苦手だと言っていたあれやこれやと同じ生き物なのだと思った。当初の気持ち悪いという思いは溶けて消え、不思議なほど心が穏やかになった。気付けば息子も、楽しそうに泥と戯れている。あぁそうか、これはセラピーなのかもしれないと思った。

生業としている人たちの苦労を思うと、ほんのちょっと作業をした田植えをセラピーとは、のんきすぎる失礼な話だろう。けれど、わたしにとってはこれまでにない、五感が開くような新しい体験だった。

子どもたちの心にも、少しは焼きついただろうか。
作業のあと、「お米ってつくるの大変なんだね。一粒一粒が、ありがたく思えるね」と言ったら、子どもたちは聞いているのかいないのか、いやおそらく聞いていないような生返事を残して、カエル探しに行ってしまった。

田植えをしたら毎日の食卓に感謝できるようになるだなんて、子どもにとってはナンセンスな話だろう。いまは通り過ぎる記憶でいい。でもいつか、自分で食卓をつくる日が来たときに、今日の風景を思い出してくれたらいいなと思う。

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