見出し画像

わたしだけの赤い傘

娘がまだ小さく、抱っこ紐が手放せずにいたころ、1本の赤い傘を買った。色や柄だけでなく、持ち手の素材やかたち、露先と呼ばれる金具などのパーツひとつにいたるまで、すべて自分で選ぶ、オーダーメイドの傘の受注会。

赤ちゃんとのお出かけは、荷物が多い。慣れない子育てが始まったばかりのわたしは、その場に出かけるのも大仕事だった。

この先、もっと大変になるのだろうか。だとしたら、ちょっとでもお出かけが楽しくなる傘だといいな。大きめの方が、子どもと一緒でも濡れずに歩けるだろうか。ハンドル部分はベビーカーにサッとかけやすいかたちが便利かもしれない。

わたしにはちょっと勇気のいる価格も、子育てのご褒美だとかこつけてなら納得がいく。なにより、そうやってこれからの暮らしを思い描きながら傘を選ぶのは初めてのことだった。

その傘の作り手、イイダ傘店の飯田さんにレシートを見せていただいた。

話をうかがいながら、あの赤い傘が手元にやってきたときを思い出していた。これからの子育てが楽しくなりますように。選んだときは祈りのような気持ちだったのが、届いた傘を手にしたとき、「これからの子育てを楽しむぞ」と、決意に変わったのを覚えている。

ある雨上がりの日、子ども2人を乗せながら自転車を運転していたら、うっかり転びそうになった。ギリギリのところで体勢を立て直し、幸い子どももわたしも無傷で済み、ほっとしたその瞬間、前輪がバリバリと大きな音を立てた。前かごに入れていた傘が滑り落ち、巻き込まれてしまったのだ。

見ると、中央の太い木軸が無惨に折れ、ひどい姿になっていた。修理を依頼しようか。しかし、もう7〜8年使い込んだ傘である。修理代と往復の送料を考えると、それなりにかかるだろうし、買い替えを検討しても良いかもしれない。でも、どこか諦めきれない自分がいる。

お気に入りが見つかったら、処分すればいい。そう思って、間に合わせで買った傘を使いながらも、雨の日はどこか心もとなかった。「これはわたしの傘じゃない」という気持ちが拭いきれず、出先の傘立てで埋もれた自分のものを探すたびに「あれなら、パッとひと目で見つかるのに」と思ってしまう。

憂鬱な雨の日を2年近く過ごすなか、この取材の機会が訪れた。飯田さんにおそるおそる状況を説明したところ、難なく修理を引き受けていただき、あっという間に傘はすっかり元通りになった。

飯田さんは傘を作りたくて仕事を続けているのではないという。一番の目的は「楽しんでもらう」こと。そのために、傘を作っているのだと。

はたしてその傘は、たしかに日常を照らしてくれていた。雨をしのぐための実用品が、わたしの手の中で別の意味をもつ存在に変わっていたことに、失ってみて初めて気づいたのだった。

いま、わが家の傘立てには古いけれど新しい赤い傘がおさまっている。
お気に入りのデザインは、長く使いたくなる。そして長く過ごした時間のぶんだけ、物語が刻まれ、愛着となっていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?