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日々の名もなき料理に

スレッズでふと流れてきた投稿に、料理家にレシピ制作を依頼する際の編集者の胸の内が吐露されていた。
「もっと手軽に」「家にあるもので代用するなら」。読者の役に立つ記事にするためには、そんな要素が欲しいし、どうしてもリクエストに加えてしまう。しかしプロに対してそれを伝える心苦しさ。
その気持ちは、痛いほどわかる。

到達点は同じ「読者においしいものを食べてもらいたい」かもしれないけれど、その山は意外なほど高く険しい。高い山ほど、登山ルートは数多く存在する。ゆっくり登るなだらかな道、険しく急な登り甲斐のある道。むろん二択ではなく、どれも正しいからこそ、難しい。

一方で、そういった「料理」とわたしが考える「日常のごはんづくり」は、似て非なるとも思う。わたしの日々は山登りではなく、ハイキングかもしれない。登らずに、「おいしいもの」という山を見上げながら周囲をぐるりと歩く散歩ともいえるだろうか。食事は楽しみのひとつだけれど、日常を健やかに維持していくためのものだ。そしてその「健やか」は、からだと作り手のこころ、両方にかかっている。

「おいしく食べる」を目指したいけれど、毎日の食事に重きを置くのは、実際には「栄養バランス」「短時間」「安価」だったりする。「子どもが食べてくれる」も入るだろう。

子どもが気にいるものを、毎日出す必要がないことはわかっているけれど、まったく食べてくれないのは困る。だから「季節の野菜をせいろで蒸すだけでいい」「ピーマンをグリルするだけで甘くておいしい」と言われても、うーむ…となってしまう。

インスタで見た、毎日ずらりと小鉢が並ぶ食卓写真。キャプションには「子どもには名前のついたメニューを作ってあげたい」と添えられていた。うちでは「今日のごはん、なに?」と言われて答えられるようなメニューはほとんど出てこない。だいたいいつも肉か魚かを伝えるくらいで「あとは作りながらどこに辿り着くか、わからない!」と答えている。

昨日は、鳥ミンチと野菜を甘辛く炒め合わせたそぼろが残っていたので、それでオムライスにしようと思っていた。でも途中で卵を巻くのが面倒に思えてきて焼き飯に変更。子どもからは「オムライスじゃなかったの?」と言われたけれど、すまん、そんな日もある。いや、そんな日ばかりだ。

そもそも、「料理」に至るまでに必要で最重要なのは、「自分でつくったものをおいしいと思えるかどうか」だと感じている。
「これでいい?」ではなく、「これでいい!」。
ちなみにここでは「これ『が』いい!」は、比較対象にない。「が」がベストなのは重々承知のうえであり、「?」の迷いより「!」という自分への納得が必要なのだ。

「これでいい!」は、「これで、じゅうぶん」ともいえるし、「ちゃんと、満たされている」ともいえる。ベストを尽くそうとは思っていない。いいねいいね、よくやったね、オッケー!と自分の肩をぽんと叩く、そんな気軽な感じ。「まだまだ」と、よその食卓をのぞいて不安になるのではなく、いまを、自分を肯定する力。

料理の話をしたかったのに、なぜだか生き方の話になった。食べることは、生きること。人間のまんなかにあるのだから、必然ともいえるだろうか。


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