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わたしはコアラ

先日、取材で「わたしはコアラなんです」という人に出会った。

「コアラって、ごく一部の場所にしかいないしユーカリしか食べられません。反対に、なんでも食べられて、どこでも生きていける動物もいるでしょう? だからといって、コアラが怠けているわけでもないし、がんばっていないわけでもない。そもそも生き方が違うんです」

コアラはオーストラリアの限られた地域にのみ生息している。ユーカリを食べることで知られるが、食用となるのは数百種あると言われるうちの、ごく一部。そのうえ好みが個体によって違うため、この子が食べるユーカリを、あの子も食べるとは限らない。そんなお気に入りの木の上で、コアラは一日20時間近くを寝て過ごす。

彼女は、アクティブにたくさん出かけてたくさん動いて、というのが得意ではないらしい。大勢といるよりも、ほんとうに気の合う人とだけ過ごすのが好きだという。たっぷり眠らないとダメなところもコアラと同じだといって笑っていた。

「どんどん動いて、みんなの前に出て。どこでも、誰とでもやっていけるタイプの人もいれば、限られたところで過ごすほうが安心できるタイプの人ももいます。自分はすぐに疲れちゃうし、なにをするにものんびり。ダメな人間だと思っていたけれど、そもそも違う動物なんだと思うようになったら楽になりました」

そういわれて、わたしは自分自身を肯定してもらえたような気がした。

ともすれば生きづらいとカテゴライズされそうな彼女の性格(性質)は、わたしとよく似ている。
コアラの生態を「生きづらい」という人はいないはずだ。自分ではこれが当たり前だと思ってきたけれど、いつから社会は人に対して「生きづらい」というレッテルを貼るようになったのだろう。

そうだ、そうなのだ。「生きづらそう」と言われてわたしは怒っていたのだ。けれど自分が怒っていることに、気づけていなかった。「生きづらい」という言葉に抗えず、手放した風船のように、どんどん遠くへ流されるような気持ちでいた。けれど、わたしはわたしだ。自分で表現するのならまだしも(最近はそっちのほうが増えてきた気もするけれど)、そんなことを他人が決めるだなんて、まったくもって失礼な話だ。

人間に生きづらいも生きやすいもない。それぞれに違う生き方を持っている。彼女の「わたしはコアラ」という言葉は、「わたしもコアラ」となって、身体中に響き渡った。

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