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春の嵐と、母の気持ち

息子が小学生になった。ランドセルを背負って学校へ行き、終わったら学童に行く。はじめて下校後に学童へ向かう昨日は大雨で、子どもでも歩くのがやっとの天気だった。

文章に書けば、たったこれだけだ。どこにでもある、当たり前の成長のはなし。でも、わたしは心臓がつぶれそうになっていた。雨粒と桜の花びらが一緒くたに横殴りでぶつかってくる春の嵐のなか、傘の盾をえいやと構え歩く息子。後ろから見るその姿は、想像以上に小さい。
保育園では年長さんとして「あぁ大きくなったなあ」としみじみ思っていたけれど、一歩外に出れば、まだこんなにも頼りないのだ。

入学はうれしいし、喜ばしい。それなのにつらくて、不安で心配で、きゅうっとなった胸の奥でメソメソ泣いてしまう。無理はさせていないだろうか。こんな雨のなかつらくはないだろうか。この学年でひとりしかいない遠くの学童に行かせてよかったのだろうか。

赤ちゃんのときは何もかも親がやるのが当たり前で、当時はいっぱいいっぱいだったのを覚えている。あのときといまを比べるつもりはないし、いま赤ちゃんを育てているひとを楽だとも思わない。ただ、いまの時点でわたし個人の気持ちを正直に言うならば、手助けをするほうがこころ穏やかにいられるなあと思う。

手放し方はむずかしい。それは信じる力にも似ている。
信じているから、手を離せる。信じていなければ、手を離せない。おんぶして、抱っこして、自転車の後ろに乗せて連れて行ったときのほうが、わたしのこころは平らかだった。甲斐甲斐しく手を貸すのも、口やかましく1から100まで言いたくなるのも、ぜんぶ自分の安心のためだったから。

学童なんて行かなくていい。いますぐ帰ってあったかいお風呂に浸かって、それからおいしいものを食べてゴロゴロしながらテレビでも見ようよ。そう言いたい気持ちをこらえて学童に送り届け(うちは学区外の少し距離のある学童に通っているので慣れるまで送迎がいる)、わたしは帰宅し仕事の続きにとりかかった。

夕方、お迎えに行った息子は頬をピカピカさせて遊びに夢中になっていた。夜、湯船に浸かりながら「ひさしぶりにスリーグッドシングスやろう」と伝えてみる。three good things、つまり今日の楽しかったこと、うれしかったことを三つ挙げるゲームだ。その日あったことを直接聞くよりも、スムーズに話してくれる気がしてときどきこうして尋ねている。

息子は「学童で食べた野菜とお肉のごはんがおいしかった」「学童でいっぱい遊んだ」、それから少し考えて「雨のなか歩いてがんばった」と、今日のよかったことを三つ、教えてくれた。



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