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「嫌いじゃないけど好きじゃない」

ふとした一言から記憶がフラッシュバックしパンドラの箱が開く。そんな瞬間はないだろうか?言葉はいつだって魔法の鍵になる。たとえ、開けたくない箱でもいとも簡単に開いてしまう。

※前回から続いてます。前回はこちら

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「嫌いじゃないけど好きじゃない」

いつもの喫茶店で2日ぶりに顔を合わせたちはるが僕の原稿に対して呟いた。

ちょっとだけかわいい店員がいない。それでも、ドリンクは頼まなければいけないわけだ。ちはるはホットティーをミルク付きで頼んでいる。ホットティーだけでなく、ケーキまで頼みそうな雰囲気から察するに一日休んだだけで元気になったようだ。

ぼくはホットコーヒーを頼む。

「あと、一歩足りないんですよ。何かが。それを埋められればいいんですけど」

※※

2月頃だったと思う。まだ寒かったし、バレンタインという誰の得かわからないイベントを無事にやり過ごした記憶だけはある。

何年か後にチョコレートの仕事をして「バレンタインは神様だった」と気づくことになるんだけど、このときはそんなこと思っていなかった。

その日、休みのはずだったぼくは突然の電話で目が覚めた。J-PHONEの折りたたみ式の携帯から雪の華が流れる。「甘えとか弱さじゃない〜」の部分ではなく「今年、最初の雪の華は〜」のサビだ。

眠い目をこすりながら、テレビの横に置かれた少しエスニック調の時計に目をやる。まだ朝の8時だ。

休みの日の朝8時にかかってくる電話なんてイヤな予感しかしない。今までに朝っぱらからの電話でよかった試しがあっただろうか。いや、ない。

何かトラブルがあり、呼び出されることを覚悟して携帯を開く。画面には景子の文字。

(景子?こんな時間に・・・)

仕事ではなかった安堵感、この時間にかかってくる景子からの連絡に対する不安感を織り交ぜた複雑な感情で電話に出る。

「もしもし。おはよ。どした?」

眠そうな声に聞こえたのだろうか?

「おはよ。寝てたよね?ごめん。」

「いや、大丈夫だけど、こんな朝からどした?」

精一杯、強がって返事をした。

「昨日から友達とスノボに来てるんだ。ゲレンデで雪の華が流れてて電話したくなった。こっちは雪がすごいよ。」

景子の家でいつも聞いている夜の低いテンションとは違い、楽しそうな声でぼくに語りかける。ゲレンデという非日常にいるからだろうか。それとも・・・。

「・・・」

ぼくは答えない。答えたくなかったんじゃない。なんと答えるのがベストアンサーだったのか、わからなかったからだ。

この電話にベストアンサーなどなく、景子は

(ぼくと話したかったから、電話をかけてきた、理由なんてない。)

それだけのことだと、単純な理屈がわかるようになったのはずいぶん先のことだ。

「今日の夜に帰るんだけど、お土産買ったから家へ来てくれない?」

「わかった」

ぼくは

「仕事が休みだから今夜、新宿にいるわけではない。そもそもお土産買ったのであれば持ってくるのが普通じゃない?」

ということを告げずに電話を切る。そういえば、お悩み相談以外で景子の家に行ったことはなかった。

突然の電話で家に呼び出す。

(景子はぼくのことを好きなんだろうな、多分。だからゲレンデから電話をかけてきた。そしてテンションも高い。)

ぼくは悟った。

と同時に、

(ぼくの思い過ごしだったらピエロだな)

(手を出したりしても大丈夫なのか?)

(女の子が家に呼ぶのはOKのサイン。と雑誌で読んだ気もする。でも、ちがったら・・・。)

今までのこと、これからのこと、いろいろなことが頭の中を駆け巡る。

身体を求めたくないわけじゃない。昔の人も言っていた。

(据え膳食わぬは男の恥)

それは知っている。

けれども、

(嫌いじゃないけど好きじゃない)

それが、景子に対する気持ちだったんだ、このときの。

(長い夜になるかもしれないなぁ)

と考えながらセーラムライトに火を点け吐き出した煙で輪っかを作る。夢しか抱いたことのない、シングルベッドからゆっくりと身体を起こす。飲みかけの缶コーヒーでからあげを流し込み、窓の外を眺める。

渋谷から歩いて30分ほどにある、ぼくの家から雪は見えない。

To be continued


こちらサポートにコメントをつけられるようになっていたのですね。サポートを頂いた暁には歌集なりエッセイを購入しレビューさせて頂きます。