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痛いって気づくこと

今日は、ひとは自分の身体の傷は自覚出来ても、自分の心の傷には無自覚なことも多いんじゃないか?ということについて書いてみようと思います。

とあるドキュメンタリー映画で、こんなシーンがありました。
それは、赤ちゃんの扱い方を新米お母さんに教えてあげる先生がいて、その先生がひとりの赤ちゃんを抱きあげるシーンでした。先生があかちゃんを抱きあげるとむずがる赤ちゃん。先生は優しく「いいよいいよ泣いていいよ」って言ってあげる。すると、うわ~んと思い切り泣く赤ちゃん。お母さんはどうしたのかしら?いつもはあやしたらわりとすぐ泣き止むのにってオロオロ。
先生によると、それは、赤ちゃんは泣きたいのに、大丈夫だよ、平気だよって気をそらせて泣かないようにさせてるから。今日はわたしが泣いていいよって許可したから思い切り泣いてるでしょう?って言われてて、そのシーンがすごく印象に残った。お母さんも確かに日ごろは泣かせないようにしてるって言われてた。そして赤ちゃんはその後けろりとご機嫌になった。

これはお母さんと赤ちゃんの間の話だけど、大人になったわたしたちが自分で自分にしてることも同じなんじゃないかと思う。
わたしは、ある切っ掛けでメンター指導のもと、自分の感情を観察するという練習をしてきた。そこで最初にわかったことは、自分はなんと自分の感情に無頓着なまま生きてきたのだろうということだった。

イヤな感情はできるだけ感じたくないものだから、自分の中で上手く言い訳が成立し、なかったことにされ、見なかったことになった。感情よりも理性で処理できることが大人ってことだと思ってた。
でも、自分の感情をちゃんと見てみようとしたときに、悲しい、なさけない、自己嫌悪という胸の中心がどーんと重くなる感じをまず感じるのに、更になに悲しくなってるの!って鞭打つわたしがいた。どんだけマゾよと思った。そりゃしんどいよ。二重に自分で自分を懲らしめていることに気づいた。

でも、自分のやってることに気づいたとき、ああ、悲しいって思い切り感じていいんだ!っていう開放感はまさに救いだと思った。
その後も、自分の感情観察は続き、一つの開放だけで悟れるわけではないけれど、すごく楽になった体験のひとつだった。

なので、昔のわたしのように、理性が勝ちすぎてるなって自覚のある人は、一度、いま、わたしって何感じてる?って問うてみるのもいいかもしれません。感情って、無意識のまま本能のままただ感じてるのと、興味を持って感じるのとでは全然感じ方は違います。
そして、見つけたら、思う存分感じさせてあげて欲しいと思います。
安心してわんわん泣いていいと思います。

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