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英文法、第1課で詰んでる件

こんにちは!
ランケミストtamacoです。

tamaco、英語教育に物申す!
第1弾(たぶん、続く……と思う笑)

最近、金谷武洋の『日本語に主語はいらない』を読んだんです。
もう、とっても勉強になりました。

彼の主張は明解で
「英語文法を下敷きにした日本語文法では、日本語をうまく説明できない」
「日本語には日本語の実体に合った文法説明が必要だ」
ということを、著書全体を通して訴えていました。
そして、ただ、批判するだけでなく、金谷なりの日本語文法説明体系を提示していて、それにもとても「なるほどー!」となりました。

さてさて、前置きはこのくらいにして。
この本を読んで、思ったんです。

英文法、第1課で詰んどるやん… って

英語の授業でまず習うのは、be動詞ですよね。
といっても、もう10年前の記憶で、この10年で英語教育もかなり変わってきたはずなので、現在の教科書事情もみておこうと思います。

どうやら、現行の中学英語教科書(三省堂 NEW CROWN, 東京書籍 NEW HORIZON)では、第1課でbe動詞、一般動詞、可能文canを扱うようです。

とにかく、第1課にbe動詞が出ることは間違いないようです。
(ふぅ←安堵のため息)

以下は、令和3年度版の英語教科書
中学1年生向け、第1課に出てくる文章です。

Hi. I am Lucy Brown. I am from London. I live in Wakaba City now.
I like animals very much. I have a turtle and an iguana at home.

三省堂"NEW CROWN" p.20

ちょっと、私の使っていた教科書のも載せてみます。

Hello, I am Yuki. Nice to meet you.
Hello, I'm Andy. Nice to meet you too.

開隆堂"SUNSHINE" pp.14-15

この教科書ではこの後、you are~, This is~とbe動詞だけが使われた文での会話が続きます。

こう見てみると、10年でかなり変わりましたね~!
小学校での英語必修化の影響もあると思いますが、
中1の最初ですごくたくさんの文法項目を学ぶんですね。

あ、また、脱線しちゃいました笑

このままだと一向に話が進まなさそうなので、
先に結論、言っちゃいます。

私が言いたいこと
それは・・・

be動詞の説明の段階で、英語文法と日本語文法の圧倒的な違いが露呈してしまっている!

ということです。

どういうことか、具体例を挙げてみていきます。

I am ○○. 
私は○○です。

だいたいどの教科書、参考書、学習動画etc.でもこういう説明だと思います。

この説明を聞いて、初学者がどう理解するか。
きっと
"I"は「私は」 "am"は「です」 と訳す
そんなふうに思ってしまうのではないでしょうか。

さらに、先へ進んで
you are~, he/she is~, this/that is~
という表現を習っても、いやむしろ、習えば習うほど
be動詞と「です」の結びつきが強化されてしまいます。
だって、教科書に出てくる例文は全部
be動詞と「です」に対応関係があるようにみえるんだもの。
それはしょうがない。

でも、明らかにおかしいですよね。。
be動詞は「です」なのでしょうか?

そうじゃないよなー、、

ちょっとまた話がズレますが…

私は、言語を学ぶ醍醐味は
その言語の話者とコミュニケーションをとること
ではなく
その言語では世界がどう見えているのかを知ること
にあると感じています。

言語を学ぶことを通して、
その言語を用いる人々がこの世界をどう切り取っているのか、
どのアングルからこの世界を眺めているのか、
そういうことを知ることが
私はとても楽しいし面白いと感じます。

なので、「訳すとは単語を置き換えることだ」と学習者に思わせてしまうような教え方や、「こういう時はこう言う」というようなコミュニケーションのための丸暗記式の教え方には、途轍もない疑問と違和感を感じます。

"多様性"とか"異文化交流"とか、様々な人たちと関わることが大事だとかいうことがしきりにいわれる昨今ですが、人と人との交流だけでなく、自分の使う言語とは違う言語を学ぶことも立派な異文化体験だと私は思います。

しかも、考えてみれば、英語教育の目的の一つも「異文化理解」ですよ!

それなのに!!!!
コミュニケーション、コミュニカティブ、アクティブラーニング・・・
今の英語教育は、言語の「コミュニケーションの道具」としての側面があまりにも重視されすぎているように感じます。
英語を学ぶことを「通して」異文化にふれ、異文化を理解するのではなく
異文化理解の「ために」英語を学ぶ、英語がわからないとコミュニケーションがとれないから異文化理解のスタート地点にも立てない。そんな誤解がはびこっているような気がします。

あかん。
すみません、もう少し脱線続きます…

もう一つ、英語教育について私が気に食わないと思うのは、開始時期の前倒し現象です。

外国語教育は母語の基礎がきちんとしてからにしよう、というのが私の考えです。

3歳児にいきなり大人用の自転車で練習させませんよね?
それと同じです。
まず、子供用の補助輪付き自転車にのせ、子どもがバランス感覚をつかんで恐怖心が薄らいできたころ、補助輪をはずし、ヘルメットとプロテクターもちゃんとつけて、最初は親が後ろで支えながら、徐々に乗れるようになっていきます。

今の日本の英語教育は、いうなれば、ヘルメットもプロテクターもつけないまま大人用の自転車に乗せ、練習させているようなものです。しかも最悪なのは、転んだら「なんでできんのじゃぁ!」と叱りつけ、「できないことは悪いこと」という意識を植え付けてしまっていること。
もう、理不尽極まりない。そりゃ英語嫌いになるわ、、

日本語の言語体系、情緒、視点、語感、雰囲気、質感・・・それらがきちんと身についていれば、自分の学ぶ外国語と対比しながら、両者の違いにより敏感になれるし、その違いを楽しむこともできるようになるのでは、と私には思えます。

「異文化理解」の前に、こと日本語に関しての「自文化理解」が必要なのではないでしょうか?

ふう…
長い長い脱線につき合っていただきまして、誠にありがとうございます。
もはや本題が何なのかわからなくなるレベルで脱線してしまいました。

自分のためにも、もう一度本題を確認しておきます。

be動詞=「です」ではない!(わかっちゃいるけど!)
そもそも言語体系的に日本語と英語は違いすぎる!

そうでした、そうでした。
これが本題でした。

もう、コミュニケーションのための英語の授業ではなく
「日本語と英語はこんなにも違うんだよ」ということを滔々と説いて
「だから、(日本語の言語体系で)英語が理解できなくても大丈夫」ということを伝える授業にするのがいいのではないかと思います。
そうすれば、テストで点が取れないとか成績が悪いとかいって英語が嫌いになって一生英語なんかやるか!となる学習者を減らせると思います。
むしろ、テストで日本語と英語がどう違うか、ということを問えば、日本語の理解も英語の理解も深まるのではないか、と思えてなりません。

また、ずれたよ…

気を取り直して

I am ○○.
私は○○です。

初学者の気持ちになって考えてみます。

まず "I" 。
これは今までに触れてきた英語からなんとなく
「私は」を指すのではないかと見当がつきます。
英語でも日本語でも文の先頭にあるし、対応関係は見出しやすい。

つぎに "am" はわからないからとりあえず飛ばして○○。
だいたい教科書の最初に載っている英文は○○に自分の名前が入るので
○○の対応はすぐわかります。そのあと、○○が "a student" や "an apple"
といった一般名詞になったとしても、なんとなく対応関係がつかめます。

さて、問題の "am" (be動詞)。
"I" は「私は」"○○"は「○○」でした。
消去法で行くと、もう「です」しか残っていません。
だから、"am"は「です」に対応するのかな?と思ってしまう。
しかも、are, is とほかのbe動詞を習っていっても、
どれも同じように「です」と対応しているように感じる。
「be動詞=です」対応が強化され続ける・・・

ここで、視点を変えてみましょう。
冒頭で紹介した金谷の主張(覚えているでしょうか…)に基づき
日本語を英語文法に無理して合わせるのをやめてみます。

まず、日本語と英語は構造が全く違う、という前提を共有します。

言い換えると
日本語の文の作り方、日本語ですわりのいい文
英語の文の作り方、英語ですわりのいい文
ということです。

次に、日本語の文の作り方と英語の文の作り方を確認します。
以下、『日本語に主語はいらない』を参照しながら話を進めていきます。

金谷によると、日本語の基本文は「名詞文」「動詞文」「形容詞文」だそうです。それぞれ具体例は「花だ/です」「走る/走ります」「きれいだ/です」となります。この名詞、動詞、形容詞を修飾する形でほかのさまざまな要素が付け足されます。(詳しく知りたい方はぜひ、金谷の著書をお読みください)

一方、英語は5文型どれにもSVが必須です。
英語を含む印欧語は主語(S)が決まらないと動詞(V)の形が決まりません。なので、かならず主語(S)がいります。
英語は動詞の変化が簡略化されすぎていて(3単現のs)この規則が見えにくいのですが(というか、印欧語のなかで、人称変化による動詞の変化がほぼない英語は特異な存在なんです…)、スペイン語、フランス語、ドイツ語などを学んだことがある方は、主語が決まらないと動詞の形が決まらない、ということがよくわかると思います。

さてさて、今回のハイライト。
英語は、文を作る際に主語が必須です。
では、日本語はどうでしょう?
ずばり、日本語には主語がいらないんです

えっ!ってなりますよね。
でも、そうなんです。
英文法の基準で日本語をみているから、
日本語に主語があるように見えるだけなんです。

たぶん、これだけじゃ納得できないですよね。
例を挙げます

「お名前はなあに?」
「花子です!」

はい、どうでしょう。

このやりとり、違和感ありますか?
ないですよね。
じゃあ、この文に主語、あります?
ないですよね。

いや、これは主語が省略されてるんだ。
そう反論される方もおられると思います。
でも、上記のやり取りに主語を入れたら不自然になりませんか?
名前を尋ねられて「私は○○です」っていう人、
日本語を第1言語にしている人には99%いないですよね。

「省略」という考え方は、本来あるべき場所にあるべきものがない場合に用いられます。繰り返しになりますが、英語にはSVが必須です。そのため、英語では何らかの理由によって主語があるべき場所からなくされたとき、主語が「省略」された、と言うのです。
でも、日本語の「私は」は「あるべきもの」ではないですよね。むしろ、ないほうが自然とすら言える。

ちょっと、説明がわかりにくくなってしまいました。

上記のことを言い換えると、
日本語では、文を作る際に主語が必要ないので主語がなくてもすわりのいい文ができる。むしろ、主語(もどき)をいれてしまうと文のすわりが悪くなることすらある。
一方、英語では、文を作る際に主語が必須なので、主語がなくなると文のすわりが悪くなる、ということです。

今回一番伝えたかったのは以上のことなので
私としてはすっきり大満足なのですが、なんか足りない気がする…

こんなに長々と書いていたら自分でも本筋を見失ってしまいます。
でも、書いていると、連想ゲームのように、どんどんいろんなことを思い出してしまうんですよね…
書かないと忘れちゃうし!笑

というわけで、今回は、英語教育に物申す!ということで
持論の展開と、感銘を受けた著書の内容紹介をしました。

みなさんに少しでも得るものがあるといいのですが、、、

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます!

批判、反論含め、この記事を読んで思うことがあれば、ぜひコメントください!