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【サラエボ】狼と薔薇と
私がその狼のキャラクターと出会ったのは、スロベニアだった。
首都リュブリャナの現代史博物館では、1984年のサラエボ冬季オリンピック40周年を記念した特別展をやっていた。そこにいたのが、サラエボ五輪の公式マスコット、狼のヴチコである。
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私は一目でヴチコが気に入ってしまった。キリっとしていながら可愛げのある、親しみやすい造形。カートゥーンなら、すぐ調子に乗って痛い目を見る役回りが似合いそう。でも劇場版ではしっかりカッコいいところを見せるんだろうな。冬季オリンピックらしくスキーをしたりゴンドラに乗っている姿の他にも、幸運を祈るfingers crossedのジェスチャーをしている姿をよく見る。いい奴である。
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サラエボ五輪マスコットの最終選考は、6候補の中から一般投票で行われた。約7,500票が投じられた内、ヴチコは3,800票と過半数を集めて当選。最終的に、1984年当時に発売されたヴチコの記念品セットの売り上げ記録は未だに破られていないらしい(サラエボ・オリンピック博物館による)。当時から、このマスコットは人々から愛されていたようだ。
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サラエボは言うまでもなく、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都である。なぜスロベニアの博物館がサラエボ五輪を特集していたかと言えば、当時はどちらもユーゴスラビアだったからだ。スロベニアの人々からしても、サラエボ五輪は十分「自分たちのオリンピック」だったのだろう。実はヴチコの生みの親も、スロベニア人である。
ヴチコと出会って3か月後。私はサラエボにいた。
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サラエボはユニークな街である。旧市街のバシチャルシヤはトルコを思わせるような(行ったことはないけど)エキゾチックな町並みで、時折モスクからはアザーンが聞こえてくる。オスマン時代の遺産である。しかし西へ進みある通りを渡った瞬間、ベオグラードのミハイロ公通りのようなヨーロッパ的景観に早変わりする。ハプスブルク時代の遺産である。街を行く人々も、他のキリスト教ヨーロッパの諸都市と大して変わらない人もいれば、いかにも「ムスリムでござい」という格好の人もいる(中東からの移民とかでもなく)。
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2024年のサラエボでもヴチコは愛されていた。バシチャルシヤの土産物屋ではヴチコグッズが堂々と売られているし(ライセンス関係がどうなっているのかはわからない)、市内には「ヴチコ」というガストロパブもある。ここのクラフトビール「ヴチコ」は中々の逸品で、ぜひお勧めしたい。ヘイジーレッドIPAとでもいうのか、濁りのある赤褐色のビールで、IPA系らしい爽やかな香りと鋭い苦み、そして遠くにヨーグルトのような香りが感じられる(気がした)。店員さんは少々いかついが気さくで、居心地は良い。
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考えてもみてほしい。40年後の東京で、居酒屋「ミライトワ」があるだろうか。下町の土産屋で、ソメイティのぬいぐるみが売っているだろうか。そう考えると、1984年の遺産は40年の時を経ても、サラエボ(そしてリュブリャナ)の人々の心に確かに生きているようだ。
しかしサラエボに来ると、その40年がいかに激動であったかを思い知らされる。
五輪から10年後の1994年、サラエボは地獄であった。1992年から続くボスニア内戦でサラエボはスルプスカ共和国(所謂セルビア人勢力)軍に包囲され、市民は結局1996年まで、物資やインフラの枯渇、砲撃や狙撃の恐怖の中、まさしく死と隣り合わせの生活を強いられた。
サラエボ中心部では、路上に薔薇が咲いている。本物の薔薇ではない。路上に残された砲撃の跡である。3人以上が亡くなった場所ではその跡に赤いレジンを流し込み、記念碑として保存しているのだ。その放射状のパターンが、赤い花のように見えるのである。
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包囲網の外側のビルから狙う狙撃兵も、市民を苦しめた。スナイパーに狙われやすい大通りは「狙撃兵通り」として恐れられ、「Pazi snajper(スナイパーに注意)」という注意書きが立てられた。四方がオープンになる交差点は特に注意が必要で、市民は狙撃をかわそうと走って渡ったり、往復する国連軍の車両の陰に隠れて渡ったりしていたそうだ。そのような状況下でも、人々は食料や水を手に入れるため外に出なければならなかった。
私がすれ違った少なからぬ人が、そのような世界を経験したのかもしれない。そう思うと、運命の理不尽さへの悲しさと、歴史の巨大な闇が迫ってくる息苦しさと、色々なものがこみ上げてくるのを感じた。
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サラエボ市内には内戦を扱った博物館が複数ある。代表的なところでは、「人道に対する罪と虐殺の博物館」「サラエボ包囲博物館」「ギャラリー11/07/95」だろうか。わずか30年前の出来事ということもあって、映像も多くあるし、経験者の体験談にも多く触れることができる。正直とても重いし、落ち込む。しかし「平和学習とか修学旅行じゃないんだから」なんて言わずに、ぜひ足を運んでみてほしい。ウクライナやガザで戦争が続く今だからこそ、学ぶべきことも多くあるのではないか。
旧市街の南、トレベヴィッチ山。ロープウェーで登れる中腹には、サラエボ五輪のボブスレーコースが残されている。包囲網の最前線だったこの地で、コースは撤去も修復もされないまま、廃墟となった。今日では遊歩道扱いで、上を歩くことができる。終点にあるビストリック塔はかつては天文台だったが、現在はこれも完全な廃墟となっている。
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ボブスレーコースのカーブは落書きのキャンバスになっている。ここにもヴチコはいた。お馴染みのfingers crossed。打ち捨てられた大会の遺産で、マスコットは何を思うか。
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サラエボ五輪大会組織委員会会長ミクリッチはこう語った。
モスクワ五輪とロサンゼルス五輪の間に開催されるこの大会は…[中略]…社会制度、民族、宗教、人種、イデオロギーや政治的信条に関わらず、世界中の人々の相互信頼の精神を涵養する懸け橋となるだろう…
この五輪の精神は、民族・宗教を異にする隣人同士が憎しみをエスカレートさせていった8年後の内戦で、残酷にも打ち砕かれた。しかしそれでもヴチコは生き残り、今日も誰かに「good luck」と語りかけている。それはさながら、内戦を挟んだ40年前から現代への、「次こそ平和と幸福を」という願いのようにも聞こえる。
そして私も、「ボスニアに幸あれ」と祈りたい。ヴチコのように、指をクロスして。二度と誰も地獄を見なくて済むように。
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