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【エッセイ】ウチの学校のS監督

2023年夏。
甲子園球場では、慶應高校が絶好調の活躍で観客を沸かせている。関西を中心に、慶應高校には所縁のない慶応義塾大学のOBOGすらも甲子園球場に詰め掛け、大応援団を形成して地鳴りのような応援で相手高校を圧倒している。

わが母校が甲子園の地にコマを進めたら、こんな風になるのかもしれない。

わが母校は、西東京大会準優勝が過去最高の成績であり、いまだ甲子園にコマを進めたことがない。慶應は、勉強がそこそこできないと野球推薦も貰えない、そんなそこそこの大学の付属校生から見れば、憧れの存在となったと言えるだろう。

慶應高校に野球推薦で進学したい場合、秀逸な野球選手としての資質が問われるのは勿論だが、それだけでは済まない。そう、学業成績である。細かく説明するとややこしいので、簡単に説明すれば中学校の通信簿が概ね4と5だけじゃないと、受験資格が頂けないのだ。わが母校を比較対象に出すのはおこがましいが、わが母校でも通信簿には4と5がたくさんで3が2つくらいという、なかなかの秀才でないと受験資格が得られないのだ。私のように怠け者で通信簿にはアヒルが2羽くらいふわふわ泳いでいるけど一発勝負にはめっぽう強い、そんな一般入試組は入試本番一本勝負の博打に勝って入学するので、逆説的だが野球推薦の後輩諸君には全く頭が上がらない。

私が入学して卒業して10年近く経っても、わが母校には野球推薦入学はなかった。加えて、スポーツなど課外活動で活躍しても、大学への推薦入学は叶わない。3年間の全教科の平均点が上位の生徒から、自分の好きな学部学科専攻を選んで進学するというドラスティックな内部推薦であった。しかも、昼間部のフツ―の学部に進学できるのは上位3割強と、なんとも薄情なシステムだった。中学時代は通信簿に優雅にアヒルを泳がせていた私も、寸暇を惜しみ、平均睡眠時間を4時間程度まで削りに削り、青春を勉強という名の真っ暗闇で塗り潰し、這う這うの体で推薦をもぎ取って大学進学を果たした。

大学を卒業して、うだつの上がらない仕事を数年で辞め、人生を打破しようと大学院に進学したは良かったが、大病を患い休学してぶらぶらしていた2000年ごろだったと思う。いろんな高校時代の友達から電話がかかってきた。「うちの高校の野球部がめちゃめちゃ強いらしい。甲子園に行けちゃうかもしれない」と試合観戦のお誘いが相次いだ。大病とはいえ若いので、めきめき復調してただただ暇を持て余していたので、誘われるままに観戦に行きまくっていた。

マウンドではS君というひょろ長い選手が、確かに力強いピッチングをしていた。あまり強くない野球部あるあるだが、S君は4番バッターであり、エースピッチャーだった。このチームには勿論野球推薦で入学した生徒はいない。みんな一般入試という名の博打に勝って入学した普通の高校生である。そんなS君たちが、ノーシードからガンガン勝ち進んでいく。

私は眉をひそめた。

どうせ野球で良い成績を残したところで、大学の内部推薦がもらえるわけではない。野球観戦は楽しい。勝ち進んでいくたびに、当然私もますますエキサトしていった。でも・・・。そう思っていたある日、新聞にS君の御父上のインタビュー記事が載っていた。

「準々決勝まで進んだのだからもう十分だろうと息子に言いましたら、激昂されましてね。親としては勉強も大切だと思って言ったのですが、本人が本気で甲子園を目指しているんだと目から鱗が落ちる思いでした。いまは全力で息子を応援しています」

3年生の2学期のテストでコケてしまったら、山奥の高校で何の楽しみもなく我慢に我慢を重ねて勉強してきた時間が、全部水泡に帰してしまう。御父上の心配もさもありなん、そう私は思っていた。

S君率いるわが母校の決勝は、神宮球場で、私の誕生日に行なわれた。相手は山一つ越えたところにある隣の私立高校だった。実は、いまの夫の母校なのだが、兎にも角にもいろんな運動部が全国レベルで、夫も当時はサッカー選手だった。中学校の通信簿がアヒルまみれでもモーマンタイな学校で、運動ができればさらにアヒルが増えても入学できる学校である。一日中野球の練習をしているチームと、一日数時間しか練習できないわが母校チーム、ここまで勝ち進んできた自信はあるだろうが、勝てるだろうか。しかも、決勝戦のわが母校の応援席は、みるみる人が出膨れ上がっていった。わが母校の卒業生ではないが、大学のOBOGがわらわらとやってきていたのだ。まさに、いま甲子園で戦っている慶應高校のように。

しかし、慶應高校と違うのはこの応援を力に変えるだけの精神力が、わが母校では全く育っていなかった。ブラスバンド部も緊張から音が出ず、1回の攻撃の間で1曲の途中までしか演奏できない。それでも、S君たちは頑張っていた。相手高校の選手はみんなS君たちの倍くらい身体が大きい。それでもS君たちは頑張っていた。あ、そういえば顧問兼監督のイッシ―先生は普通の社会科教員で、野球未経験者である。それでもそれでも、S君たちは頑張っていた。

試合の最後がどうだったのか、いまとなってははっきりと思い出せないが、S君が細い体をくねくねと曲げながらマウンドに突っ伏した残像が、私の頭の中にいまでも残っている。5対3で惜しくも敗退したのだった。

その後、S君をはじめとした野球部の主要メンバーは、特別措置で大学進学を果たした。そして、わが母校も遅ればせながら野球推薦入学を開始した。前代未聞の特別待遇だったが、当然だなと思った。

あれから、20年余が過ぎ、今年のわが母校は西東京大会のダークホースとしてにわかに注目され、久々にベスト8にコマを進めた。甲子園に出場を果たした強豪校と戦った準々決勝、生徒たちが自ら考えたであろう奇策が次々飛び出し、一泡吹かせることには成功したが、あえなくコールド負けを喫してしまった。奇策が飛び出している間、ずっと優しげな笑みを浮かべながらベンチ前に立っている日焼けした恰幅のいい40がらみの監督。そうあの日のS君である。S君は大学卒業後。教員としてわが母校に帰って、野球部の監督を務め続けているのだ。

そしていま、高校野球は生徒が自分で考え行動するプレイスタイルにシフトしている。
幸いにも秀才くんの少なくない我が母校にも、チャンスの光がさしてきたのだ。
S君いやS監督、チャンスだ!いまこそチャンスなのだ!!

私はS監督には、既存の概念や価値観、運命をゴロンとまわして変える力のある人なのだと思っている。それは、生まれついて持っている不思議な能力なのであろう。わが母校の大学への内部推薦の枠組みを変え、わが母校の入試に野球推薦ができ、神宮球場にわが母校が時折現れるようになった。応援する人も増え、ブラスバンド部はもうタイミングを間違えないし、チアガールも応援団も大学のそれと見間違うばかりに堂々としている。

内部推薦枠はいまや9割近く、青春を謳歌しながら大学へ入学できるようになり、慶應高校と遜色ない条件の付属校となった。

いつか、もしいつか、わが母校が甲子園に足を踏み入れる日が来たら、私はきっと行くだろう。かち割氷をビニール袋に入れたものを大量にクーラーボックスに詰めて、帽子とハンディ扇風機とポカリスエットと・・・。あぁ、考えただけでワクワクする。

勉強漬けだった17歳の私へ、頑張れよ!20年後30年後、いや40年後かもしれないが、いま勉強で塗りつぶされた青春は必ず取り戻せるぞ!!頑張るのだ!!!



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