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ただ「美しい」という価値

――東山魁夷《晩鐘》

中学の美術の教科書で初めてその絵を見た。
当時は、それがどこの風景かなんて考えたこともなかったけれど(外国なのか日本なのかさえ)、「なんて美しい景色なんだろう」と、ただ純粋に心からそう思ったことを覚えている。

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私は、決して美術に詳しいわけではないけれど、それなりに興味はあるので、美術館にはよく行くほうだと思う。

ルネ・マグリットの展示を見に行ったときには、彼の絵の中に哲学を見た。
《ヘーゲルの休日》という作品は、黒い傘の上に水の入ったグラスが乗っている絵。水を弾くものと、水を入れるもの、という相反するものを同時に描いた作品だそうだ。
誰かが欲しくてたまらないものが、誰かにとっては無価値なものだったりする――当時は自分の境遇に当てはめて、そんなことを感じた。

国立西洋美術館で印象に残っているのは、エドワールト・コリールの《ヴァニタスー書物と髑髏のある静物》だ。
ヴァニタスとは、もともとラテン語で「空虚」という意味で、寓意的な静物画のジャンルなのだけど、描かれている物はどれも、死や虚栄のメタファーである。
髑髏はわかりやすいが、中には果物や楽器、時計などもその対象になっている、というのが興味深かったのを覚えている。

エドガー・ドガが描くのは、かわいらしい踊り子たち。これらの構図や動作などが、北斎の浮世絵の影響を受けていたというのは興味深い。
「北斎とジャポニズム」という展示で見た、ドガの作品《踊り子たち、ピンクと緑》。この、繊細で美しい色彩で描かれた踊り子が、北斎の描いたふんどし姿のおっさんと同じポーズで立っているのは、笑ってしまう。なかなか面白い展示だった。

イタリアのシスティーナ礼拝堂の天井画は、旧約聖書の場面を描いているなど、歴史的意義も大きいが、何より作品が物理的に大きい! 大きすぎる!
入った瞬間、天井も壁も隅々まですべてが絵で埋め尽くされていて、どこを見ても、絵、絵、絵。その迫力にはもう息を飲むしかないのだ。
教科書に必ず載ってる絵でしょ〜? 聖書の話とかわからないし〜という感覚で行ったとしても、本物の大きさには思わず「おぉ……」と感嘆するほど迫力がある。

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さて、前置きがかなり長くなったが、私は先日、六本木の国立新美術館に行ってきた。
目的は、東山魁夷展だ。
日本の戦後を代表する風景画家で、「青の画家」といわれるほど、青が美しい景色をを描くのが東山魁夷である。

そして、その美しさは圧巻だった。

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《白夜》

今までの、私の中の美術の概念が覆された。

私はずっと、美術とは、作品が象徴しているものや、描かれた時代背景を知ることが面白さであり、それが美術鑑賞の価値だと思っていた。

でも、彼の絵は違った。

そこには、マグリットのような哲学があるわけでも、ヴァニタスのように概念の理解が必要なわけでもない。
その展示は、北斎に影響されたドガの作品を見るような学びがあるわけでもないし、システィーナ礼拝堂のような圧倒的な大きさと迫力で魅せてくるわけでもない。

でも、ただ美しかったのだ。

そういう説明的なものとは別次元のところで、もっと粛々と美しかったのだ。

どの絵も、その景色の中に吸い込まれるような臨場感があって、私は彼の絵の一枚一枚を五感で観ていた。

しんとした静寂の音が聴こえる。
夜の草木の匂いが鼻をかすめる。
ひんやりした空気は深い森の味がする。
そして、うっすらと白くかすむ霧の、冷たさと湿度の重みを肌に感じるのだ。

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《竹篁》

そんな、観る人の五感を刺激し、心を震わす絵たちをはじめて目にしてわかった――

ただ「美しい」ということが、それだけで価値なのだ、と。

美術館で涙をこらえたのは、生まれてはじめてだった。

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こうして、私の中の美術の概念が覆され、私は美術館を出てからもずっと、頭の中がぐるぐるしていた。

このぐるぐるは何なんだ……。
それから何時間も後になってやっと、その正体がわかってきた。

もうすぐ終わろうとしている平成――。
その、あらゆるものに満たされてしまった現代では、私たちは「そこから何を学び、何を得たのか」「何のためにそれをするのか」「何でそうなったのか」といった問いに、がんじがらめにされている気がする。
常に学びを促され、行動には意義が必要で、結果には理由が求められる。

心の声を聞くより先に、頭で考えることが当たり前になった。理屈や理性ばかりの毎日に、私たちは無意識に慣れきってしまっているのだ。

だから彼の絵を観たとき、頭が考えるより先に、私の心と身体が、ただ純粋に「美しい」と感じたことに驚いたのかもしれない。

何でこんなに美しいんだろう……?
そんなことは考えてもわからなかったし、考えること自体が無意味に思われた。

学び、理解することで味わう――というのは、確かに美術鑑賞の一つの楽しみ方である。
でも、作品の前で、ただ美しいと心を震わすことも、またかけがえのない体験であり、それこそが本質なのかもしれない。

その発見は、私にとって新鮮だったと同時に、人の原点に帰らせてくれたように思う。

そして、とにかく今は胸を張って言えるのだ。
平成が終わっても、その次の年号が終わっても、頭で考えるより先に心が感じる「美しい!」を大事にしたい、と。

きっと、その「美しさ」も、美しいと感じた「心」も本物で、尊く、価値のあるものだから。

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《夕星》

***余談***

小学校の卒業文集のクラスのページに、「好きな色は?」という質問があったのだけど、そこで「青と緑の仲間みたいな色」って書いている男の子がいた。
特に仲がいいわけでもなかったが、その回答を見たときに「あぁ、わかる」と思ったことを覚えている。
東山魁夷の「青と緑の仲間みたいな色」を、彼も観に行ってるといいなぁ。

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