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育児は最も距離が近くて、最も壮大な推し活

好きなことを追求できる子になってほしい。
賢い子になってほしい。
相手の気持ちを考えられる子になってほしい。
一度決めたらやり抜く子になってほしい。
好奇心の強い子になってほしい。

親が子どもに望むことをあげたらキリがないだろう。
じゃあ、親はどんな育児をすればいいのか。

子どもを産んでから「叱らない育児」という言葉を知った。ふむふむ、なるほどね、できないことに目を向けるんじゃなくて、できたことを見つけて積極的に褒めるのか!と思っていたら、今度は「ほめない育児」というのに出会った。

「アドラー心理学」で有名なアドラーは、「ほめない・叱らない育児」を提唱しているらしい。なぜ褒めちゃいけないかというと、「褒める」という行為は、上の立場にある人が下の立場の人を評価することだから。「すごいね」「えらいね」という言葉は、相手を下にみているから出てくるのであり、それでは子どもと対等な関係を築くことができないのだそうだ。

ではどうすればいいかというと、「勇気づけ」をするのがいいらしい。褒める代わりに「楽しそうだね」「がんばってるね」と言い、叱る代わりに「どうしたらいいかわかる?」と聞く。
そうすることで、子どもが自立するために必要な援助がしやすく……

とまあ、こんな具合でいろいろ書いてあって、どれも納得はできる。良さそうだなあとも思う。
ただ、ずっと移動手段ハイハイ一択だったわが子が歩けるようになったら、誰だって「すごーい!!!」「歩くのじょうずー!!!」と声を3トーンくらい上げて叫んじゃうし、自分で洋服を着替えようとしてるのを見たら「自分でできるのー!すごーい!」「ひとりでお着替えしてえらーい!」と拍手喝采するでしょう。ついでに、喜びの舞いでも踊っちゃうでしょう。

それはもう、なんていうか「下にみてる」とかじゃない。おぎゃあと生まれて、ひとりじゃ何もできない動けない、顔に毛布がかかっていても自分で取ることもできない、そんな、ちょっとでも油断したら死んでしまう小さな生命体を育ててきたら、子どもの成長は「すごい!」「えらい!」の連続で、それは決して上から目線の言葉じゃなくて、心からの驚きと喜びと感動。ただそれだけ。
だから、「すごい」「えらい」を言わないとか無理! ふつうに言っちゃうし、言ってもいいじゃんと思う。

とはいえ、やっぱり育児には何かしらの方針みたいのがあったほうが楽だろうな、とは感じる。
だって、「今の言い方でよかったのかな」「こういうとき何が正解なんだろう」という自問自答が、毎日お茶を飲むくらいの頻度でやってくるから。
そういう答えのない問題を心のなかでくり返すのは、まあまあ疲れる。

そこで最近思うんだけど、「育児は推し活」だと捉えるのが一番いいんじゃないだろうか。「わが子=推し」っていう考え方をすると、育児ってものすごくシンプルなんじゃないかと思えてくる。

推しに望むことって単純明快、「推しの幸せ」じゃない?
育児も同じ。冒頭に「親が子どもに望むことをあげたらキリがない」と書いたけれど、よく考えたら「こんな子になってほしい」と望むことって、「すごい」「えらい」と言うよりも、よっぽど子どもを対等に見てない。
他人をどうにかしようだなんて、そんなことを考えること自体が傲慢ではないか。

推しに対して「こういうこともできるようになってほしい」とか「こういう性格になってほしい」なんて絶対思わない。推しそのものが、その存在がすでに尊くて愛してやまないはず。ダメなところがあったとしても「それも含めての推し」となるし、推しが何かをがんばっていたら「全力で応援してる! でも無理はしないでね」となる。
そして推している歴が長ければ長いほど、「あの推しがこんなふうに活躍するようになるなんて……ここまで本当がんばったね(涙)」となったり、以前の姿を知っているからこそ「あれが苦手だった推しがこんなことに挑戦してるなんて、すごすぎるよ~(涙)」となったりする。

とはいえ、すでに働いてお金を稼いでる推しと、まだ世の中のマナーもルールも知らず、人格形成の真っ最中の子どもを、一緒に捉えるのは無理があるというのはわかる。
もっと大きな子を育ててるママパパさんたちには、「わが子=推しだなんて甘いこと言ってられるのは今のうちよ。本当に大変なのはこれからよ、ふふふふ」とか言われちゃうかもしれないけど、きっとそうなんだろうけど、でもやっぱりこの気持ちは心にいつも置いておきたいと思うのです。

というか、この気持ちを忘れてしまうと、子どもをコントロールしたり、自分の願望を押しつけたりしかねない。
わたしは小さい頃から水泳を習っていた。きれいなフォームで泳ぐのは得意だったけれど、タイムを競うコースになってからは、泳ぐのが遅くて、内容によってはできないものもあって、恥をかいてばかりで行きたくなかった。
でも親は「なんでもすぐにあきらめる子になってほしくない」という理由で、プールをやめさせてくれなかった。その経験を経てわたしが何を得たかというと、どれだけつらくても、自分に合っていないと気づいても、思考停止でただやり続けるということ。それしか武器がなかったわたしは、その後の人生でもそうやって戦い、結果心を病んだりした。

もちろん、時代の傾向もあるだろうし、世の中には少しがんばらないと楽しさがわからない物事はたくさんある。でも、それを踏まえても、わが子=推しだと思っていたら、こうはならないんじゃないかと思う。(せめてどうすれば苦手を克服できるか一緒に真剣に考えてほしかったかな)
ある意味、親を反面教師にしている部分はあるけれど、なんかそれってネガティブだし、自分がされて嫌だったことを思い返すのも精神衛生上よくない。それに、自分が嫌だったことが必ずしもわが子も嫌だとは限らない。
だから、今後は「わが子=推し」「育児は推し活」の精神でいたいなと思う。それは、とてもポジティブで楽しいことに間違いないから。

それでふと思い出したのだけど、以前、幻冬舎plusに出てた夏生さえりさんのこの記事を読んで、首がもげるほど頷いた。

特にこの部分。

うーん、ちょっと考えただけで「デメリット」と呼べそうなものなら、すらすらすらすらともっともらしい形で口から(指から?)出て行くのに。
じゃあ、メリットは? って話なんだけども、これが、考えても考えても、やっぱり無いのだよ。
「子どもとしか味わえない楽しい体験がある」とは言えるけど、同時に「子無しでしか味わえない楽しさ」を失うのでメリットとは呼びづらく、そもそも別に子どもを産まなくたって幸せだし、楽しいし、人間的にも成長できる。一点の曇りもなく「別に子がいなくても、幸せに暮らしていたと思う」と言える。
たぶん、残念ながら、メリットなんかない
「子に会いたかったから。会えて、うれしいと思うから」と、ただそれだけの気持ちしか、ないのだった。

本当に子を持つメリットなんてなにも無いよね。でもね「メリット」なんて言葉におさまるものが、おそろしくちっぽけに思えるほどの圧倒的な幸福があるよ
いまの私は、そう思うのだ。

これを改めて読んで、なおさら子育ては「推し活」だなと思った。
メリットなんてない。確かにそう。でも「メリット」なんて言葉自体に違和感があるくらい、ただ「この子が好き」というそれだけで楽しくて幸せなんだ。

個人的には、最初の一年間くらいは子を持つデメリットの大きさに結構参っていて、「ああ、わたしの一人時間……」「なんでわたしばっかりこんなに我慢しなきゃならないんだ」「自由が欲しい」「遊びたい仕事したい旅行したい」って感じだったけど、子が2歳4ヶ月になった今、メリット・デメリットで育児を考える次元にはもういない。

推し活で遠征して夜行バスで帰ってきて翌日仕事してる人、推しのライブやグッズに毎月何万円も費やしてる人、推し活しやすいように転職する人。どれも傍から見れば「そこまでする!?」「疲れないのかな?」「お金かかるね」なんて感じたりするのだけど、育児もつまりそういうことなんだよね。

ようやくやってきた土日、家でゆっくりしたい気持ちに鞭打って外に遊びに行くのはそりゃ大変。だけど、子どもが思い切り楽しんでる姿が見たくて、子どもにまだ見たことのない世界を見せてあげたくて、気づけば親もワクワクしながら出かけるんだ。
「こんなに高いの!?」子どものおもちゃや、出先でのお土産、可愛い洋服を見つけたときなどは白目を剝きそうになることもある。でも、そのお気に入りを持って歩いてる姿、握りしめて寝てる姿、喜んで着ている姿を想像したら、「はあ、可愛すぎる……。もう全部ママが買ってあげるからね!」と、駄々こねられたわけじゃなくとも気づけば親が積極的に課金している。

好きだから、応援したいから。それだけの理由で時間もお金も体力も喜んで捧げられるし、気づいたら捧げた分だけ自分は楽しくて幸せになってるんだ。

推し活がその人の人生を豊かにしてくれるように、推しのおかげで明日もがんばろうと思えるように、息子はわたしの人生を豊かにしてくれて、わたしが明日をがんばる理由になってくれる。
しかも、その推し=わが子はいつもどこでもわたしの目の前にいるのだから、ここまでゼロ距離の推し活なんて他にないだろう。さらに、これから何十年にもわたって成長していく姿を見られるなんて、リアルの人間でここまで長期間推せる相手も他にいないだろう。

息子よ、こんなに楽しくて幸せな推し活を教えてくれてありがとう。
そして、この先大きくなるにつれて親子でぶつかることもあるだろうけど、あなたのことを「最愛の推し」だという気持ちを忘れないようにして生きていこうと思います。

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