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会社の先輩との再会に思う「死」と「新生の希望」

お世話になった先輩との再会

 先日、唐突に 団体旅行営業をしていた時代の先輩から連絡があり

「畑の野菜がいっぱい出来てるから大宮まで出てこない?あげるからさ。」

 とのこと。彼は2年前に65歳を迎えて会社の契約満了し、今は悠々自適に埼玉北部の自宅で畑をやりながら過ごしている。
 この先輩とは同じ支店で営業をやりながら、国内・海外、よく一緒に添乗にも行った。
 添乗というのはハプニングがつきもので、沖縄で台風直撃に遭い120名の団体が足止めになったり、お客さんの急病やお客さん同士の喧嘩による負傷で救急車に乗って病院に行ったり。一緒に協力してやり遂げたことがたくさんある。
 それこそハプニング対応を上げたらキリがないのだが、協力して解決したことはとても良い思い出である。

 先輩が引退の日、私はお世話になった感謝の印としてカタログギフトを持って支店へお邪魔したなんてこともあった。

 大宮での再会の日、食事をしながら思い出話に花を咲かせながら、彼はそのことが凄く嬉しかったみたいで、

「そういう心遣い、出来そうでなかなか出来るもんじゃないよ。」

と言って、朝6時に採ってきたというナス、ピーマン、シシトウ、ピーマン、キュウリ、枝豆、紫蘇など山盛りの新鮮夏野菜をくれたのだった。

 元々目が悪い先輩だったが難病だそうで、徐々に症状が進んで今は障害者認定を受け、いずれは失明する可能性もあるそうだ。

「でもさ、人生前向きに明るく生きないと仕方ないじゃん。畑やって汗流してさ、玉ちゃんも愚痴とか悪口とか言わないじゃん。そういう仲間とたまに会ってさ、楽しい話するのが一番いいんだよ!」

「じゃ、またね!」

 楽しく食事して話をして、駅での別れ際、目が見えにくいので、そろりそろりとふらつきながら階段を降りていく先輩の背中を見送りながら、ふと「またね」はないかもしれないよなー、という思いが私の頭の中に響いて、先輩を追いかけた。

「記念写真撮りましょう!」

思うより身近な「死」とニコデモに見る希望

 つい先日私も定年を迎え、再雇用の身となった。
 いざこの年になってみると、生きているのが当たり前ではないということをしみじみ感じている。
 先輩も元気とはいえ確実に衰えている。
 そして先輩と再開し楽しい時間を過ごした数日後、6月末まで普通に勤務していた3歳上の社員が急逝したとの訃報が入った。おそらく気づいた時には手遅れの癌だったようである。これには少なからずショックを覚えた。
 人は若くても死ぬ。しかし歳を重ねれば当然のことながらその確率は着実に上がっていく。
 そう。死とはいつも隣り合わせなのだ。

 ちなみに私がキリスト者であることは、勤務先でも周知の事実なので、先輩が言うように「クリスチャンは愚痴や悪口を言わない。」加えて「前向き。能天気。」というのもクリスチャンのイメージとして紐づけられているらしい。それは有難いことである。
 だからと言って私と接している社員たちがキリストを信じるかというと、残念ながらそうではない。それまでの人生の中での日本的価値観、生活文化を転換させることは非常に困難であると日々実感している。

 ところで聖書に目を転じるてみると、年齢を重ね、かなり強く固められた価値観の中で生きてきたある人物とイエスの出会いと問答が記録されている。
ニコデモという人である。
 福音記者ヨハネは、ベテランのユダヤ教の教師でありサンヘドリン議員(当時の国会議員)であったニコデモが、夜に人目を忍んで齢30そこそこのイエスを訪ねてきたことを記事にしている(ヨハネの福音書3:1〜15)。
 社会的地位も高く、教師として尊敬されていたであろう彼の霊的な渇きを見抜いたイエスは、

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

(ヨハネ3:3 新改訳2017)
「イエスとニコデモ」  ヘンリー・オッサワ・タナー
ペンシルバニア美術アカデミー 1899年

 自分より遥か年上のニコデモに単刀直入、豪速球で切り込む。

 何十年もかけて築いて来た人生。その間に染みついた考え方、人間関係、生き方の癖。それらをガラッと変えることは難しい。いや、自分の力では無理だ。
 イエスはそれを十分承知の上で

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」

(ヨハネ3:5  新改訳2017)

「水」、すなわち罪の悔い改めのバプテスマと「霊」、すなわち聖霊の働きによってでなければ「神の国」、すなわち創造主なる神の主権の中に生きることが出来出来ないと明言された。
 逆に言えば、聖霊が働かれたなら悔い改めが起こり、神の国の住民になれるということである。

 このシーンでイエスの言葉をニコデモがどう受け止め、どうなっていったのかをヨハネは記していないが、彼の福音書を読み進めていくと、イエスを捕らえるべきだと主張する議員やパリサイ人に対して冷静にイエスを弁護し(ヨハネ7:50~51)、十字架で惨殺されたイエスの埋葬に高価な没薬と沈香を持参し立ち会っている(ヨハネ19:39)ニコデモが記録されている。
 これらのことから考察して、彼は自分の立場とそれまでの人生観からキリストを信じる者に変えられたということが想定出来るのだ。
 さらに、ヨハネはイエスとニコデモの会話を記した後に、聖霊に導かれてこう記すのだ。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

(ヨハネ3:16 )新改訳2017

 あまりにも有名で、多くの人々がこの御言葉でクリスチャンになったという箇所である。
 ヨハネが間髪を入れずに、聖書真理の核となるこの言葉を書いたということは、ニコデモの新生を暗示していると言えるのではないだろうか。

 ニコデモは、自分が「新しく生まれる」などということは、まったく想定出来ていなかった。それまで培ってきたユダヤ教の知識ではとても納得できることではなかったからである(ヨハネ3:4)。
 でも公生涯のイエスの言動を見聞きして、彼こそが旧約預言で示されているメシヤであることを確信し、おそらく彼は復活のイエスにも会った。そしてイエスが昇天した後のペンテコステで聖霊を受け、初代教会のメンバーとなったのではないかと思う(聖書に記述はないので筆者の私見)。

 私はここに大きな希望を見出す。

 聖霊が働かれたなら、人間の知見や常識では起こり得ないことが起こることを。

 救いの主権は神にある。

 人の努力に連動するものではないし、誰かの功績によるものでもない。
 だから私は自分が出会う人々に、キリストを信じる者が結ぶ御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制)をもって接し、適切に聖書の御言葉を伝えることを厭わない。
 そして結果は主権者なる神にお任せする。

 私は第二、第三、第四…………のニコデモが起こされることを信じる。


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