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教会に行けないクリスチャン その2

 前回の記事では、クリスチャンとして教会に籍を置いた人たちが、なぜ教会に行きたくなくなったのかの実例を書いた。
 今回はその続編である。

最新データから見るキリスト教の現状

 今年(2023年)の5月に東京基督教大学がデータブック2023「神の国の広がりと深化のために」を出版した。
 その前書きで山口陽一学長がこのように綴っている。

日本の教会は、教勢データから見るかぎり、「停滞」を通り越して「衰退」に入っています。認めたくないことではありますが、この現実を直視することなしに展望は開けません。

 本書はプロテスタント福音派のみならず、世界の最新の他宗教も含む統計を紹介しながら、キリスト教全体の教勢を多くのデータから多面的かつ客観的に分析している。
 日本において宗教の衰退はキリスト教だけでなく、仏教・神道・新宗教にも顕著であり、宗教離れが進行しているのが見てとれるのだが、牧師・伝道者はもちろん、市井のキリスト者としても一読されることをお勧めしたい。(ちなみに私は教文館のWebサイトより入手した)

 ところで山口学長が現在の日本のキリスト教は衰退期に入っていると断じる根拠は、教職者・信徒双方の高齢化、カトリック、正教も含め人口の1%前後の信徒数でありながら約190もの教団・教派が乱立しているプロテスタント教会の不一致性などがあげられている。それらにコロナ禍という特殊な社会状況が拍車をかけ、ますます教会の陪餐会員(実際に礼拝出席しているクリスチャン)が減少し、受洗者より召天者が大幅に上回る状況が続いているのである。
 そのような中で私が最も気がかりなのが、その1で書いた「教会に行けないクリスチャン」の存在なのだ。

SNSで出会った教会に行けない(行かない)クリスチャンたち

 X(旧Twitter)で私は長年自分の立場を明確にしてクリスチャンとしての発信をし続けているためか、多くのクリスチャン、またはキリスト教に興味を持っている方と知り合うことが出来た。
 SNSという特殊な枠組みだからなのかもしれないが、ここで出会うクリスチャンの中で教会に行けない(行かない)方がとても多いことに気付いた。そのうちの何人かの方からは直接お話を伺う機会を得ているのだが、それらの証言からこんなことが見えてきた。

1.以前は教会に通っていた、或いは洗礼を受けたが毎週通うのがしんどくなり、そのうちにバツが悪く行きづらくなった(行きたくなくなった)。

2.元々教会が少ない地域に居住している、または転居などにより通える範囲に自分に合う教会がない。

3.イエス・キリストを信じたなら救われているので、色々煩わしいことがある教会に行く必要ないと思っている。

4.牧師が代わって教会がカルト化してしまった。または教会が分裂してしまって行く教会がなくなった。

5.説教の内容に躓いた。

6.教会内の人間関係に躓いた。

7.牧師や有力な信徒から過度な生活への干渉、過剰な献金の要求などによる牧師や教会への不信感。

 こういう話は、教会の中の人にはなかなか打ち明けられないものである。ジャッジされず非難されない外の人に対してだからこそ安心して話せるのだろう。
 しかしこれらのことを打ち明けてくれるクリスチャンの殆どは、神への信仰を捨てたわけではなく、阻害要因さえ取り除かれたなら礼拝したいし賛美したいし、御言葉で強められたいと思っているのである。私はそのことに一縷の光を見る。

 だが教会は、かつて受洗の喜びを分かち合い、共に賛美して礼拝を捧げていたのに、来なくなった兄弟姉妹たちの本音を聴く機会を持たない。
 私自身、教会の奉仕者なので、これは自己批判である。私自身がかつて誰かに躓きを与えてしまったことへの悔い改めでもある。

謙り聴くこと。そして新たなチャレンジ

 教会はまず、こういう人たちをたくさん生み出していることに気付かなければならない。
 イエスの大宣教命令に従い、一生懸命伝道しても、多くの受洗者は3年で教会を離れるという。
 離れた本当の理由に耳を塞ぎ、また熱心に伝道に励むより、本当はイエスを礼拝したい所属なき信仰者たちの回復に心注ぐべきではないか。
 とはいえ、旧来の彼らが躓いた教会のままで「戻ってきて」と言ったところで問題は解決しない。
 離れていったことを問いたださず、責めず、聴くために、へり下って寄り添わせてもらえる人間関係を回復させたい。

 それと並行して、新たな取組みにチャレンジしたいと思わされている。
 具体例としてコロナ禍で出会った2人のクリスチャンの働きを紹介したい。

 ひとりは、長年教会生活を送り、献身的に仕えていた方である。この方は教会の分裂という痛みを経験し、長年仕えた教会を出て、自分と同じように教会に行けなくなったクリスチャンや、聖書や教会に興味があるものの教会に行く勇気のない人のために、自ら神学校で学びオンライン礼拝を始められた。そこは少人数のとてもリラックスした柔らかな雰囲気の中で静まり、主の祈りを唱え、使徒信条を告白し、共に賛美し祈り、御言葉を聴くまさにエクレシア(神に呼ばれた者たちの集い)であった。

 もうひとりの方は、やはり教会生活をしっかり送っていたものの、なかなか良い教会に巡り会えずにいた方である。
 そんな中、ある時出会った信頼出来る元伝道師の方を日曜日に自宅に招いて家庭礼拝をするよう導かれ、それ以来ずっと長く続けている方である。
 その方が過去に導かれた教会は、牧師が独善的であったり、聖書から外れているようなメッセージをする教会だったり、異端まで行かずとも極端な教義だったりと苦労されたようである。しかし紆余曲折を経て神の不思議な采配によりその形に辿り着いたそうだ。
 初代教会のように手作り料理を提供して皆で食卓を囲みつつ、御言葉の糧を頂き、共に賛美し祈るのだ。すると人々の心は聖霊によって豊かに耕されるから、この家の礼拝から多くの人が救いに導かれているという。

 これらの事例はいずれも、地域教会から派生したミニストリーではない。
 地域教会のミニストリーとしてのオンライン礼拝、家庭礼拝はこれまでもよくあった方法だが、これらの事例は地域教会では出来なかったオンライン礼拝であり家庭礼拝の形である。このような形だからこそ所属なき信仰者たちに居場所を提供出来たのである。

 願わくは、悔い改めて所属なき信仰者に目を向けるようになった既存の地域教会と、これらの新しいエクレシアを繋げて行くことが出来れば、衰退に歯止めをかけられるのではないだろうか。

 主の御心に従い、私に出来ることから動けるようお祈り頂きたい。

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