咲き始めの梅から感じた余白の尊さ
先日、奈良県の月ヶ瀬村というところに梅を見に行ってきた。奈良の端の方にある村で、梅林があり梅の名所になっている。
もうだいぶ前になるが、小さい頃に両親と一緒に行ったことがあり、それっきりだったので久々に訪れてみたいと思った。
山みたいなところで梅を見たその景色と、今は亡き母が梅肉入りのうどんを気に入っていたのをなんとなく覚えている。
もしかしたら、母との思い出をなぞりたかったのかもしれない。
調べてみると、今年は2月11日から3月24日まで梅まつりが開催されているらしい。ちょうどいいタイミングで母の友人がドライブに誘ってくださったので、一緒に行くことになった。
まつり開始から1週間のタイミングで訪れたが、梅はまだ咲き始めという感じだった。
品種によってはかなり咲いている木もあったけれど、全体的にはぽつりぽつりと咲いている印象。
でも、そのぽつりとした感じもまたかわいらしくて、ほほえましい気持ちになった。
そして、圧巻とは言えない、こぢんまりとした梅の景色を見ながら思った。
わたしは満開の景色よりもこれぐらいの方が好きかもしれない。
この景色の何に惹かれるのだろうかとぼんやり考えてみると、それは余白があることじゃないかと思えた。
まだ満開になっていないからこそ、満開になった美しい姿を自由に思い描くことができる。
その景色を想像しながら、これから満開になるんだという希望のようなものを感じられる。
その余白がある。
日本人は未完成のものに美しさを覚えるという話を聞いたことがあるが、それを肌で感じたような気がする。
余白があるのが大事。
というのは、今まで生活の中でも何度も感じてきた。
でも、この日の梅を見て、改めてその尊さを教えてもらったように思う。
振り返ってみると、余白が大事と言いながら、わたしは自分の日常をいろいろなことで埋め尽くそうとしがちだ。
研究、仕事、家事、運動、趣味、などなど。
やることがたくさんあるのは、一見充実しているように思える。でも、そこにゆとりがなければ追われてしまい、心は疲弊していく。
きっと、余白がある方が心は満たされるのだと思う。
最近、いろいろ詰め込みすぎていませんか。
生活を塗りつぶしていませんか。
梅の景色に、そんなことを問い直させられた気がする。
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