見出し画像

【小説】役作り

 ギュシューッと大袈裟な音を立てながら、電車が止まる。
 こんなご時世もあってか、この駅に停まる最終列車であるにも関わらず、電車から降りる人は殆どいなかった。
 僕はホームから改札までを繋ぐ階段を降りながら、意識もせずにICカードをコートのポケットから取り出していたことに気づき、ハッとする。ホームから改札までを最短距離で歩き、その間にICカードを取り出すという行為を、完全に無意識で行なっていたのだ。

 昨日も同じような速度で歩き、同じ動作をしていたのだろう。とすると、今日という1日のアイデンティティは何なのだろうか。
 小学生の頃に、夏休みの宿題として書かされていた日記を今つけるとするなら、昨日と今日は全く同じ文言になってしまうに違いない。そんな今日という1日に意味はあるのだろうかと考えると、見慣れた駅も何処か灰色に見えてくる。

 ICカードを改札にかざし、駅を出ると、人気のないロータリーにぽつんと喫煙所が佇んでいる。
 その横を通り抜け、いつものスーパーへ向かおうとしたところ、視界の端に白い物が目に入る。足元に目をやると、それは保険証だった。

 確かここから少し行ったところの大通りに、交番があったはずだ。少し遠回りになってしまうが、これを交番まで届けてあげようと考え、しゃがみ込む。『柳誠人』と書かれたそのカードを拾い、ポケットにしまった。
 それは、完全なる善意というわけでもなく、今日という1日に意味を持たせるというためにも、誰かの人助けをしたいという気持ちも含んでいて、偽善という言葉が良く似合うと感じた。

 一時のイレギュラーな時間はあったものの、それからはいつもの道のりでスーパーに向かい、最短距離で酒類コーナーに向かった。
 発泡酒を手に取り、レジに向かう。仕事終わりの息抜きが必要だと、自宅までの道のりで発泡酒を飲むようになったのだが、もはやそれも日常となり、今となっては息抜きとしての役目は全く果たしてはいない。

 レジに発泡酒を置くと、おそらく大学生であろう男性店員が、おぼつかない手つきでバーコードを読み取る。
 僕がスマートフォンでバーコード決済の決済画面を開いていると、男性店員が恐る恐る僕の顔を覗き込む。
 「身分証って、ありますか?」
 「え?」
 「あの、お酒、なので。身分証の提示が必要、なので」

 「ああ」このスーパーに1年近く通っているが、身分証の提示を求められるのは初めてだった。30を過ぎた僕が未成年に見えることがないことが主な理由だろうが、いつもレジに立っている白髪姿の男性が、面倒くさがって形式的な確認を省略していたのだろう。
 鞄を広げ、財布を探すが、普段からスマートフォンを使った決済方法に依存している僕は、殆ど財布を持ち歩くことはない。半ば諦めながら鞄の中で手探りで探すが、もちろんそこに財布はなかった。

 更に、そこにはないことがわかっているのに、ポケットの中に手を入れる。そこには、先ほど拾った保険証しか入っていなかった。
 『柳誠人』という文字を見て、そのままポケットに戻そうとするが、男性店員がその保険証を覗き込み、「あ、はい、確認できました」と、ろくに確認もせず言う。
 そうか、この人は僕が『柳誠人』なのだと勘違いしているのだろう。ぼんやりとそう考えながら、バーコード決済を終え、レジを後にする。

 スーパーを出て、発泡酒を一口飲んでから、改めて保険証を見る。当たり前だけれど、このカードがあれば、僕は人に『柳誠人』だと思われる事ができるのだ。先ほどのレジでそうだったように。
 そんなことを考えてから、どうしょうもなくありきたりでつまらない僕として生き続けるのをやめて、『柳誠人』として生きてみるのもいいかもな、とふと思いつく。ほんの少しだけ、今夜だけでも、と。

 それから改めて保険証の生年月日の欄を見ると、『柳誠人』は僕とそう年齢も変わらないようだ。「なら、いける。今から僕は、柳誠人だ」そう自分に言い聞かせた。
 身分証を提示する必要がある場所はどこだろうと考え、駅の反対側に漫画喫茶があった事を思い出す。そこで、『柳誠人』として過ごそう。

 漫画喫茶まで歩きながら、「柳誠人」と小さく声に出した。今は、これが僕の名前なのだ。言い慣れていなければおかしい。それから、小さく何度も繰り返した。
 そして、柳誠人について考える。情報としては、名前・年齢・生年月日・住所と、拾った場所からして喫煙者であるだろうということだけだった。
 喫煙者なのなら、お酒もたくさん飲むだろうと偏見混じりの推測を立てて、僕は発泡酒を飲みきり、さして酔いも回っていないのに、千鳥足で歩いてみる。

 千鳥足でフラフラと歩いていると、漫画喫茶が見えてくる。住所からするに、柳誠人こと僕はこの駅が最寄り駅ではない。終電を過ぎてまで飲んでしまい、仕方なしに漫画喫茶に行くのだ。余計な出費が嵩んじまったなと、苦い顔をしてみせた。
 店内に入り受付の前に立つと、女性店員がやってくる。
 「いらっしゃいませ。初めてのご利用でしょうか?」
 「ああ、そうだよ」僕は、普段なら絶対しないであろうぶっきらぼうな物言いをする。
 「ではこちらに入力をお願いします」
 女性店員がタブレットを差し出す。

 そこに、個人情報を入力する。保険証を見ながらの入力になってしまったので、不自然に思われたかもしれないと女性店員を覗き見たが、あくびをしてろくにこちらの姿を見ていなかったので、そっと胸を撫で下ろす。
 入力が終わりタブレットを渡すと、「身分証を確認させていただいてよろしいでしょうか?」と言われ、保険証を差し出す。
 その保険証が本当は僕のものではないことに気づかれるのではないかと不安になったが、「ありがとうございました」とすぐに保険証を返された。

 それから、席のタイプや利用時間を答え、「では、ご案内致しますのでどうぞ」女性店員が歩き出したので、フラフラとした足取りで、女性店員の臀部をじっと見ながらついていく。これも、普段なら絶対にしないことだ。
 パソコンの前にリクライニングチェアが置かれた部屋に案内され、「ごゆっくりお過ごしください」と言って女性店員はその場を後にした。
 その頃には僕の中で柳誠人になりきる役作りはもうほとんどできあがっていて、部屋を出て漫画を探し出すときも、迷わず『AKIRA』と『静かなるドン』を手に取った。柳誠人が読みそうで、かつまだ読んでいない漫画はこの辺りであろう。

 『静かなるドン』を6巻まで読んだところで、睡魔が襲ってくる。せっかく漫画喫茶に来たのだから漫画を読まないと元を取れないと一瞬考えたが、きっと柳誠人は短絡的に睡眠欲に従うであろう。リクライニングを倒し、目を閉じた。


 目が覚めて、まずなぜこんなところにいるのだろうと理解できなかったが、すぐに昨日の出来事を思い出す。そうだ、僕は柳誠人なのだ。
 利用終了時間も迫っていたので、コーヒーを一杯飲んでから店を出る。
 朝日の眩しさに目を細めて、コンビニへ向かう。柳誠人なら、タバコを吸ってから自宅で帰るであろう。タバコとライターを購入し、昨日保険証を拾った喫煙所へ向かった。

 その喫煙所は、毎日外から見てはいたが中に入るのは初めてで、だけれどさも普段からよく利用するかのような素振りで、中に入る。
 四方を磨りガラスで囲まれたそこは、思ったよりも窮屈で、ガラス越しに曇った景色と、広がった空だけが目に入った。
 慣れない手つきでタバコを一本取り出し、これまた慣れない手つきでライターで火を付ける。それを咥え、思いっきり吸い込むと、禍々しいものが喉から体内に入り込む感覚に、むせ返ってしまう。
 涙目になりながら見上げた空は、煙まじりで、いつもより少しだけ綺麗に見えた。