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【小説】第六感

 それは火曜日の朝。
 いつもより早く目覚めてしまい、頭を目覚めさせるためにコーヒーを胃に流し込みながら、ふと予感のような第六感のようなものが僕の頭を支配した。
 僕は、今日死ぬ事になるだろう。

 それは、もう一口コーヒーを啜る頃には、僕が生まれるずっと前から決まっていた既存事実のように、特出して感情が揺さぶられるものではなくなっていた。
 ただし、喉に詰まって取れなくなった小骨のように、何か心に詰まったものがある。
 そして、もう一口コーヒーを啜ってから思いつく。この人生に、やり残したことがあるんじゃないのか。

 やり残したこととは何かを確認するために、脳裏で過去の思い出深い情景を思い浮かべ、また次の情景に移っていった。
 それは結婚式で流れるスライドショーのようでもあり、走馬灯のようなものでもあったのだが、緊張感に欠けるせいか心を揺さぶられるものではなく、死ぬ事に対する後悔や悲しみは生まれてこなかった。

 ただ一つ、高校生の頃に付き合っていた恋人の存在を思い出した時は、脳裏に浮かんだ情景に他よりも濃い彩りが添えられているように見えた。

 それは、高校生の恋愛によくあるような、特に大きな理由もなく付き合い、その半年後にこれもまた大きな理由もなく別れた相手だった。
 高校を卒業してから一度も思い出すことのなかった彼女に関する記憶はそう多くはないのだが、はっきりと覚えている出来事が一つある。

 それはレストランか喫茶店だったか、どんなシチュエーションであったかは覚えていないが、彼女の食べた物の会計を僕が支払おうとした。それが、彼氏という存在の義務だと、そう思っていたからだ。
「僕が払うよ」
 僕の言葉に、彼女は怪訝そうな表情を見せた。

「人にお金を払ってもらうのって嫌いなの」
「嫌い?どうして?」
「人の細胞って毎日生まれ変わってるって言うでしょ?」
「うん」
「君に払ってもらって食べたカレーの栄養で生まれ変わった私の細胞は、私って言えるのかな?」
「うーん、言えると思うけど」
「私にとってはそうは言えないの。私は私であり続けるために、君に奢ってもらうわけにはいかないの」

 それでも僕は、何とか押し通してその代金を支払ったと記憶している。
 その時の彼女の表情は思い出す事は出来ないけれど、それは罪悪感から自分を守るためにあえて忘れてしまっているからなのかもしれない。

 その頃の僕には、彼女の理屈を理解する事は出来なかったし、高校生の女の子が抱えるアイデンティティの確立なんてものに理解はなかった。
 でも今となっては、なぜそこまで自分の意思を貫き通したのか、後悔の念に駆られた。

 彼女に謝ること、これが僕のやり残したことかもしれない。
 すぐにスマートフォンを手に取り、LINEで彼女の名前を探した。
 アカウントの写真は高校生の頃から変わらず、初期設定の卵のようなアイコンのままだった。

「お元気ですか?もしよければ今日、会えませ?か?」そう打ち込んでから、ふと考える。
 10年近くも連絡をとっていなかった学生時代の同級生から、こんなメッセージが来たらどう思うだろう。
 宗教の誘いや、保険の勧誘に合うのではと身構えるだろうか。それとも、思い出したくもない記憶を無理やり開けられ嫌悪感を抱くだろうか。

 ただ、僕は今日死ぬのだ。後悔を抱く時間もどうせそう残っていない。躊躇いはなくなり、送信ボタンを押した。
 するとすぐに、既読という文字が浮かび上がる。送信ボタンを押した、ほとんど同時にだ。
 僕とのトーク画面をずっと開いていないとそんなスピードで既読とはつかない。

 僕とまた同時に、彼女も第六感を感じていたのだろうか。
 そう考えると、学生時代に彼女に抱いていた愛情を急に思い出し、死ぬことへの後悔さえ感じ始めていた。

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 どうしようもなくありがちな朝だけれど、私は目を覚ましてすぐ、「夢で良かった」と強く思った。
 正確には、夢で見た出来事から10年近くの年月が過ぎていて、あの頃よりも随分打たれ強くなった事に「良かった」と感じた。

 その夢では、学生時代に半年ほど付き合った恋人——恋人と呼ぶのも今では腹ただしいのだけれど——が出てきて、過去に私に浴びせたのと同じ言葉をぶつけた。

「その膝のホクロ、黒たまごみたいだね」

 物心がついた頃から、私の中で膝にある大きなホクロというのは、私を私たらしめるものであり、私が私を嫌う理由であった。
 学生時代というのは、ブレザーの制服や体育着など膝を露わにしなければならない服装に身を包む時間が多く、そのホクロを見た多くの男子学生が私を『黒豆』と呼び始めた。

 そんな事にコンプレックスを抱いていた私は、そんな自分を変えようと服装が自由であるという理由だけで選んだ高校で、夏でも膝を一切見せないようなパンツを履いて過ごした。
 そして、中学生の頃までには考えることもなかった、『彼氏』という存在もできていた。

 その彼と交際を初めて3ヶ月が経った頃、両親が共働きである私の家に集まり、私たちはぎこちなくお互いの裸を見せ合った。
 その時に言われた言葉を、10年近く経っても夢で見るだなんて、それだけ深く鋭利な一言であったのであろう。

 その時に見た、これまで呼ばれてきていたあだ名である「黒豆」よりも遥かに大きなもので例えられた私のホクロは、人生で1番黒ずんで見えて、私の記憶に深く刻まれた。

 そんな事を言われて、なぜ3ヶ月も交際を続けていたのかは覚えていないが、「別に好きな人ができた」と言われてあっさりと交際は終わった。

 それから大学生になり、人並みに異性との交際を経験し、いつしか膝のホクロに対するコンプレックスは薄れていったけれど、彼のことは時折思い出す事があった。
 もちろん、憎しみの相手として。

 その度に、彼のLINEアカウントを見に行く。
 見に行くたびにアイコンの変わり、しかもそれが流行りのアニメのキャラクターである事に、偏見混じりではあるがあまり充実のしていない人生であろうと想像し、私はほくそ笑んだ。
 いい趣味ではないとわかりつつも、その習慣を止める事は出来なかった。

 嫌な夢で目が覚め、彼の言葉を思い出してしまった今日も、いつもと同じように彼のアカウントを覗きにいった。
 すると、10年以上稼働することのなかった彼とのトーク画面に、新たな一文が追加されていた。

「お元気ですか?もしよければ今日、会えませ?か?」