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【小説】黒い桜

 春になると僕のベッドからは、病院の入り口のところに咲いている桜を見ることができる。この時期は花見ついでにやってくる見舞客も多く、桜を見上げたり写真を撮ったりしている。
 そして、舞い散る花びらを見て恍惚の表情を浮かべながら、落ちた花びらを平気で踏みつけて、帰っていく。

 夜になると僕は、部屋を出て真っ暗な廊下を歩く。これは、入院生活が始まってからの習慣となっていた。
 誰もいない廊下は足音がよく響くけれど、さっとどこかに逃げてしまったように、すぐに消える。
 階段を上ろうとした所で、僕のとは明らかに違う、しっかりと噛み締めるように鳴る足音が聞こえた。
「あっ」
 階段の上から、小さく高い声が聞こえる。
 その声の方向を向くと、病院着を着てマスクをしている女性が立っていた。

「こんな時間に、どこ行くの?」
 その女性が僕の目の前まで降りて来て、尋ねる。
 遠くから見たときは気にならなかったが、目の前で見ると、釣り上がった大きく黒目がちな瞳に、心の奥底まで見透かされるんじゃないかと不安になった。
「屋上」
「屋上?え、なんで?寒くない?」
「まあ。寒いけど、絵、描きたい……ので」
 僕は、手に持った画用紙を見せる。
「へー。絵描くんだ。部屋じゃダメなの?」
「うん。シャッシャうるさいって、隣のベッドのおじさんに怒られる……ので」

 その女性は、押し込めたような笑い声を上げた。
「え?」
「わかる。私も、君くらいの年齢の頃は、大人に敬語使うべきかどうか悩んだよ。いいよ、タメ口で」
「……」
 取ってつけたような敬語が見抜かれたことに対する恥ずかしさと、日頃から感じていたこの迷いを共感してくれたことに対する嬉しさで、僕は俯くことしかできなかった。
 そんな僕を覗き込みながら、その女性は尋ねる。
「いくつ?」
「……15」
「マジか。私、ちょうど倍だ」ハハハと笑いながらその女性は、「算数の問題とかであったよねこういうの。年齢が倍になるタイミングを求めなさい的なやつ」と続けた。

「なんで?」
「ん?」
「なんで、あの……あなたは、こんな時間に外出てるの?」
「ああ。飲み物買いに」
 その女性は、手に持っていた長財布を僕に見せる。
 その財布に描かれたロゴは、確か有名で高級なブランドのロゴだったように思うけれど、名前は出てこない。
 その女性は、マスクをずらしながら続ける。
「一応少し有名人だから。私。日中はあんま病室出れなくてさ」
 その顔に、見覚えはあった。

 名前は確か、小泉桜子——だった気がする。
 母親が見ていたドラマでヒロイン役をやっていたような覚えはあるけれど、元ヤンの教師が生徒を更生していくという、あまり興味の惹かれる内容ではなかったので、僕は熱心には見ていなかった。
「へー」
「知ってる?私のこと」
「うん。女優……さん、だよね?」
「え、それでそのリアクション?——私も全然だなー」
「や、僕が、そういうの詳しくないだけだから」
「あ、私の部屋くる?」
「え?」
「違う違う」僕の反射的に浮かべた表情に、桜子は慌てたように右手をひらひらと振った。「別に食って掛かろうとかそんなんじゃなくて。屋上じゃ寒いでしょ?私のとこ、一人部屋だから」


 桜子の病室は、僕らが6人で使っている病室よりも広かったが、荷物はほとんど置かれておらず、そのせいか1つしかないベッドがやけに寂しそうに見えた。
 桜子は「座って」と、病室にはそぐわない合皮の黒いソファを指さし、すぐに自分もそこに腰掛けた。
「いや、こっちにする」と、僕はベッドに座った。
 ベッドが窓際にあるからそこに座っただけなのだが、桜子は何を勘違いしたのか「そっか思春期かー」と妙に納得したような表情をした。

「君さ」
 窓の外に見える桜のシルエットを見ながら画用紙にペンを走らせていると、桜子はスマートフォンをいじりながら声をかけた。「ネットニュースとか見る?」
 僕は調べ物をする以外でスマートフォンに触れる習慣がないので、ネットニュースという言葉に馴染みがなく答えあぐねていると、桜子が言葉を続けた。
「急病のため活動休止ってなってるんだけど——まあ、知らないか」
「急病なの?」
 桜子は、僕の会ったことのあるどんな大人よりも生命力に満ちている大人に見えていたので、なんとなく意外だった。
「違う違う。あれ、ウソ。色々と好き勝手やりすぎてね、お灸添えられちゃった。一応それをホントっぽくするために、入院はしてるんだけどね」
 あれっと僕は疑問を覚える。先ほど、自分は有名人だから人気のいない時間にしか部屋を出れないと言った旨のことを言っていたが、ホントっぽくするなら人に見られたほうがいいんじゃないか——と考えたが、まあいいかと口には出さなかった。
「そっか」

「なんの絵描いてるの?」
 気づかないうちに桜子は僕の隣に座っており、画用紙を覗き込んでいた。
「桜。あれ」と言って、窓に顔をやる。桜の木に月の明かりがかかっており、スポットライトを浴びているかのように堂々と佇んでいた。
「黒いんだ。夜だから?」
 桜子の問いかけに、僕は画用紙に視線を落とす。そこには、真っ黒に塗りつぶされた桜の絵があった。
「夜とかは関係ない」
「じゃあ、なんで?」
「桜の影を描いてるから」
「影?」

「みんな春にだけ桜を見上げて、桜の影を踏みつけるから」
「ん?」と、桜子は首を傾げた。前髪が揺れて、大きな瞳に影が差した。
「一年かけて芽吹く準備をしてるのに、そんなの誰も見ないで、春の花びらが咲いてる時だけ桜を見上げてるのが、なんか……嫌だなって。本当はどんな時だって桜は綺麗なのに。——それで、桜を観にくる人たちの足元にある、桜の影が可哀想に見えて、それを描いた」
「そっか」と小さく呟き、桜子は宙を見上げる。照明に当たっているせいか、瞳が潤んでいるようにも見えた。
「その絵、もらってもいい?」
「え?」
「そう、絵。だめかな?」
 今言ったえは感嘆詞のえなんだけどと弁解しようとも思ったけれど、そんなのはどうでもいいかと、画用紙を一枚千切って桜子に渡した。
「ありがとう」桜子は、卒業証書を授与する時のように、両手でそれを受け取る。手にした画用紙が小刻みに揺れて、そこで桜子の手が震えていたことに気づいた。


 次の日の朝、そういえばと思いつき、スマートフォンで「ネットニュース」と検索をしてみた。すると、ネットニュースの意味ではなくいくつものニュース記事が表示されて、その中に『小泉桜子』という文字があったので、そのページを見てみる。
 今朝更新されたニュースのようで、『小泉桜子 芸能界引退』『数万人に一人という不治の病』といった文字が並んでいた。その記事のタイトルの下には、桜子のハミかんだような笑顔を向けている写真が写っている。
 記事の内容に現実味を感じることができず、「不治の病」と僕は口に出してみたけれど、その言葉の軽い響きのせいで、よりその言葉の意味との乖離が生まれたように感じた。
 その記事を一番最後まで見ると、『コメント』と書かれたところに、ハンドルネームと共にこの記事に対するコメントが書かれていた。
『大好きだったからショック。安泰に過ごしてほしい』
『あんなに可愛いのに。可哀想』
『大好きでした。あなたのことは忘れません』

 さらにその下までスクロールすると、桜子に関する別の記事が表示されている。そこをタップしてみると、桜子の主演映画の完成披露試写会に関する記事だった。
 その記事もスクロールしていくと、またコメントが表示される。
『良いのは顔だけで演技は学芸会レベル。どうせ枕で取った仕事でしょ』
『↑顔も言うほどか?』
『テレビ局で働いてる知り合いが、小泉桜子は裏だと態度悪いって言ってた』
『この映画見たけど、熱出てる時の夢をずっと見させられてる感じ。訳わからない上に不快だった』
 その他にも、見るに堪えない悪口がスマートフォンの画面を埋め尽くす。

 昨日の記憶を引き出しながら、階段を登る。
 『506』と書かれた部屋のドアが、昨日とは違い重々しく感じた。
 そのドアを開けると、ぱっと見たときは昨日と同じような光景に感じたが、よく見るとベッドが綺麗に整えられていたり、昨日まであった荷物が全て無くなっていて、より無機質な部屋となっている。
 ベッドの辺りに近づくと、窓の外の桜が目に入る。今日は風が強く、いつも以上に花びらが舞い散っていた。
 そのうちの一弁の花びらが、風に乗りどんどんと上昇していき、見えなくなるほど高くまで昇っていった。