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挫折と自分を受け入れることのスパイラル

2週間に1度カウンセラーさんに会って話をしているのですが,どんな話をしましょうかと聞かれて,毎回同じような話をしてしまっている気がするので,事前に考えをまとめておこうと思って,ふと考えたことを文章にまとめてみます。

根拠のない自信を持って粋がって,壁にぶち当たって自分に自信をなくして,それを受け入れて,そのプロセスで自分が自分のことを好きでいられる場所を探してきた,そんなような人生を今まで生きてきたなと振り返って思う,そんな話です。

サッカー少年・バスケ小僧の時代

私は幼稚園から小学生の間,ずっとサッカーをやっていました。決して上手ではなかったけれど,サッカーをするのは好きでした。でも,小学校高学年に入ったらバスケのほうが楽しいと感じるようになったんですね。それは,自分がサッカーでうまくなることに限界を感じたからです。これが最初の挫折と言ってもいいかもしれません。サッカーの練習をサボって友達とバスケしていたこともありました。友達とバスケしている,そういうレベルなら,自分が割とうまくプレイできて,そのことがきっと自己肯定感にもつながったのだと思います。

そして,中学校ではバスケ部に入りました。入部して,ミニバスをやっていたのちに部長になる同級生と1on1をやることになりました。彼は学年で1番うまかったのですが(だから部長になった),ミニバス経験者ではない自分も彼と互角に渡り合えていると思ったことを今でも覚えています。先輩を負かすほど上手ではなかったので,自分たちの学年が主役になるまで,あるいは新人戦のような舞台を与えられるまでは試合に出るようなこともなかったのですが。それでも,学年の中で言えばスタメンで出られるくらいでした。チームはそんなに強くなかったのですが,自分はそれなりにバスケがうまいという謎の自信があったからです。

そんな自信を胸に,当時都立高校でバスケが一番強い高校に進学しました。東京都中からバスケに自信がある生徒が集まってくるような学校ですから,もちろんレベルはとんでもなく高いし,ましてや高校生になったばかりの1年生と上級生では何もかもレベルが違いすぎますから,先輩相手には何もさせてもらえないわけです。そんな中でも,やっぱり上手い同級生は先輩の中に混じっても臆せずプレーしていました。2つ上の学年が東京都で夏と冬を連覇するというとんでもない偉業を成し遂げ,インターハイとウィンターカップに出ていました。国体に選ばれる選手もいました。1つ上の代は残念ながらインターハイ出場を逃してしまいましたが,それでも東京都ではベスト4でした。自分たちの代は正直国体に選ばれた選手もいなかったですし,他の強豪校に比べれば力は弱かったです。そんなチームでも,私は試合に出るどころかベンチに入ったのも数回しかなく,試合の日はスタンドで応援するだけでした。公式戦に出場したのは,3年生の最後の大会の1回戦か2回戦で,何十点も差がついた試合の残り1分を切ったくらいからでした。シュートを1本だけ打って外しました。自分の高校が会場校になっていたのですが,試合に出て下手をするくらいなら出ないで終わったほうがましじゃないかくらいに思っていました。この高校時代の部活の体験が,私にとっては2度目の挫折と言っていいと思います。しかも,1度目よりはもっと大きかったです。

勉強面での挫折

高校時代にはもう一つ勉強面でも挫折を味わいました。学力的にレベルの高い高校に進学したわけではなく,むしろ高校受験時には模試でA判定以外とったことがないくらいでした。高校受験時には学力的なチャレンジはしなかったのです。とはいえ,高校の勉強は中学までのそれとはレベルが一段も二段もあがります。文武両道というのは中学までよりも格段に難しかったです。中学の時は学年で5番以内には常に入っていましたし,1番にはなれなくても3番には入れるみたいな感覚がありました。それが,高校にいったら学年で5番どころかクラスで5番に入ることすら難しくなったのです。井の中の蛙ってやつだったわけですね。苦手だった数学は中学レベルでギリギリで,高校にあがったらもうだめでした。結局,高2のときに日本史or数学Bという選択(実質文系か理系かの選択になっていたといってもいいかもですね)で日本史を選びました。

結果として,私は大学受験時にも挫折を味わうことになります。受験そのものに失敗したわけではありませんが。志望校選択をする時期に,私が目指していた国立大学はセンター試験で数学2Bが必須に変わったということを知りました。私は数学Bを履修していなかったので,志望校を受験するためには独学で数学Bをやらなくてはいけなくなったのです。学年の数学の先生(のちに高校3年次に担任になる先生)に相談し,問題集をやることになったのですが,結局苦手な数学を自分で勉強してもわけがわからず,勉強をやめてしまいました。そして最終的に,数学Bを必要としない(数学1Aだけで受験できる)大学を受験することにしたのです。

大学受験自体はギリギリでなんとか合格しました。卒業式の日が合格発表の日で,当時は今のようにスマホはなかったですし,インターネットもそこまで発達していたわけではなかったので,合格発表のページがアクセス集中で全くつながりませんでした。結局,家を出るまでに結果を知ることができず,進路未定のまま卒業式に出席しました。国公立を受験する人は少なかったので,多くの人は合格しているかすでに浪人を決めている人たちでした。そんななかで合格したのかどうかたくさん聞かれて,まだわからないと答えていました。卒業式が終わって家に帰ると,結果通知の封筒が届いていました。中を開けて合格という文字を見たとき,全身の力が抜けて「よかったー」とソファにドカッと腰をおろしたことを今でも鮮明に思い出せます。

高校にまだ残っていそうなクラスメイトの携帯に電話をして,そこで合格していたことを伝え,周りにいたクラスメイトや担任の先生にも電話越しで報告しました。勉強で挫折はしたわけですし,進学した大学は別に有名大学でもなければ一流大学でもない地方国立大学でしたが,浪人をせずに大学に合格したというのは,高校時代に味わった挫折をなかったことにするような成功体験だったと思います。

大学時代の挫折:英語力

ただ,大学でもしっかり挫折を味わいました。ここでも勉強関係でした。勉強というよりは,英語力といったほうが適切かもしれません。私は入学時に受けたTOEICは英語専修の1年生で2番目に高く(記憶が曖昧ですが),その時点で教養英語科目の単位に互換できるくらいの点数でした。ところが,大学に入ってからはあまり真面目に英語の勉強をしていたわけではなかったので,そこから100点ほど点数が落ちました。英会話の授業でもなかなかうまく喋れない思い出のほうが多かったですし,プレゼンの授業でも一語一句原稿を書いて読み上げないといけないほどでした。留学生と一緒にとった英語の授業はディスカッション中心で題材となったドラマの"Dr. House"を観てもなにがなんだかさっぱりわからず,ディスカッションにもまったく参加できずにただただ縮こまっているだけでした。

3年次の教育実習でも,英語で授業をやろうとしてもまったく英語はスラスラ出てこないし,このままじゃ英語の先生になんてなれっこないと強く思いました。そして,かねてからのあこがれでもあった留学と,もっと勉強したいという意欲で大学院進学を決めるのですが,TOEFLの勉強もしんどかったです。問題集を解いてもわからない単語だらけ,リスニングは早すぎて全然内容わからない,スピーキングは一言二言くらいしか出てこないしライティングも全然だめでした。どれだけ時間をかけても成果が出なくて,大学4年間で英語力が全然伸びてないことに絶望しました。これが挫折です。

ちなみに,英語力に対するコンプレックスは2年間の北米留学中も24時間365日持ち続けていました。なんなら英語で様々なことができる今でも,英語が上手ではないという気持ちは心のどこかにあります。ただ,語学教師の身でこんなこと言うのどうかと思うんですが,語学って嫌いなんですよね。言語学は嫌いじゃないし,英文法も嫌いじゃないです。言葉の知識を学ぶのは好きだけれど,言語能力を高めるという目的で「勉強」したり,あるいは資格試験のために勉強するというのが苦手なのです。だから英語が伸びないんですけどね。そうは言っても,大学〜大学院修士課程時代に抱えていたような自己嫌悪感みたいなものは今はありません。本当は良くないけれど,まあそんなに自分を卑下する必要はないくらいの英語力はあると言ってもいいんじゃないか?という気持ちでいるというか。

大学以降のバスケとの向き合い方

さて,少し話は変わって。高校時代はバスケで挫折をしたと書きましたが,私は大学時代もサークルでバスケを続けていました。挫折はしたけど嫌いになったわけじゃなかったんですね。私が所属していたサークルはわいわい楽しくバスケしよう系で,中学はバスケ部だったけど高校ではやってなかったとか,そもそもまるっきりバスケをやったことがないという人から,高校までガチで部活でバスケしていた人まで幅広くいました。そうした環境では,高校時代に全くと言っていいほど試合に出たことがなかった自分でさえも上手い方で,1年生のときなんかはなんならサークルの雰囲気がぬるすぎて嫌いだと思っていたくらいでした。その当時はサークルに仲のいい友達もまったくとおらず,学年が2つ上の先輩を小馬鹿にするようなプレーすらもしていました(一度抜き去ってからもう一度相手の前に戻るとか)。見かねた先輩に諭されたりして,学年ごとにチームを作って出場している市民大会も自分の学年では出場せずに1つ上の先輩たちのチームに混ぜてもらっていました。

夏休みや春休みにはガチでバスケしたい人だけで行く大会合宿に連れて行ってもらい,そこで結構真面目に楽しくバスケをできていました。そういう大会でも好成績を残せるほどの実力では個人でもチームでもなかったのですが,緊張感のある中で試合をして,そしてそこで自分が少しでもいいプレーができたらそれで結構嬉しかったです。自分の思ったとおりのプレーができたり,あるいは自分でもどうやってそんな動きをしたのかわからないようなプレーが飛び出したりして。もちろん負けたくてやってるわけじゃないですから負けたら悔しかったですが,それよりもバスケをすることを楽しめるようになっていたんですよね。それに,やっぱり試合に出ないとうまくならないなとも思いました。高校のときは,試合にほとんど出た経験がなかったので,レベルは違えど大学で試合に出てプレーすることが多くなったことで,自分自身の能力が向上しているような実感もありました。もちろん,身体能力はどんどん衰えていっていたわけで,スピードもジャンプ力もスタミナも高校時代より落ちるわけですけれどね。それでも,総体として見たときには高校生の頃の自分よりも上手になっている気がしました。

アメリカにいたときも,地域のバスケットボールリーグみたいなところに参加して,寄せ集めメンバーチームで週末の試合に出るみたいなことをやっていました。そこでも,自分のレベルにあった環境で,緊張感のある中で自分が自分にできる最高のプレーをしようと思ってやっていたので,勝てなくて悔しい思いはたくさんしましたけれど,自分でうまくいったプレーもたくさんあったので楽しかったです。とても競った試合で自分が活躍してチームが勝ったときのことは今でも覚えています。終了間際,1点ビハインドの状況で,トップ(スリーポイントラインの外の中央)やや右のところでボールを貰って,シュートフェイクしてから右にドライブして相手と接触しながら(ファウルもらえなかったけど)レイアップを決めて1点差で勝ちました。気持ちよかったなぁ。

日本に帰って来て以降は,なかなかバスケをする機会は多くなく(中学校教員時代は部活の指導と称して生徒に混じってやってましたけど),最近は大阪でバスケに誘ってくれていた友達も東京に戻ってしまったので全然バスケはやれていません。でも,次にプレイしたときには自分にはどんなことができるだろうかとか,練習はしてないけどインスタで見たりするテクニックはできるかなとか,そうやって考えるだけで楽しかったりします。高校で挫折したときの自分は,今こうやってバスケと向き合う自分を想像することなんてできないでしょうね。

英語力と授業力

話をまた戻します。英語力の話。今はあまり自分の英語力に対して自己嫌悪感がないと書きました。これは,自分の精神衛生を悪くしないためのストラテジーとしては悪くないと思っています。ただ,語学教師というプロフェッショナルとしてどうなのよということになると,やっぱり自分の教える英語というものに対しての知識と,その運用能力は常に向上させ続けないといけないでしょうと思います。現状に満足したら,プロフェッショナルといえるだろうか,という気持ちが,心のどこかにあるのは間違いないです。

英語力と関係していますが,「授業力」についても同じような気持ちがあります。一応教員養成課程出身者で,修士も英語教授法で,英語の授業についてはたくさん考えて,実践をして(もちろんどちらもまだまだ足りないわけですけど),年齢やキャリアを考えたら今の時点でそこまでだめな英語の授業はしていないという気持ちはあるわけです。もっともっと良い授業ができるようになりたいですし,その向上の余地もたくさんあると思います。じゃあ,かといって,今の自分の授業はてんでだめで,語学教師なんか失格で,学生に害悪のある授業であるということかというとそうではないと。今の自分を全否定するわけではないですし,大学3年次の教育実習のとき,アメリカで教育実習に行ったとき,日本に帰ってきて中学校で教えていたとき,名古屋で大学院生だったときに非常勤で教えていたとき,そのどの時よりも,今の自分のほうが授業がうまくなっている,少なくとも下手になっては絶対にいないとは思います。ただ,だからといってこれ以上を目指さなくていいかというと,そうではないんですよね。仕事ですから。この点が,バスケのような趣味の領域のことと同列に語れない部分かもしれません。

研究の挫折

そして,このプロフェッショナルという問題がよりのしかかってくるのが研究の部分です。当然,研究でも挫折を味わっています。というか,研究に関しては最初から挫折し続けていると言ってもいいかもしれません。修士課程にいたときは難しい論文を読んで全然理解できなくて途方に暮れたことは数え切れないほどありました。博士課程に入ったときは,研究のことばかり考えていた修士時代からのブランクが1年近くあったので,そのときに勉強したことを思い出すのに必死でした。ところが,名大にはすごい知識量の先輩がいて,「やべえ言ってること全然わかんねえ」と思いながら毎日を過ごしていました。自分の中に「これだ!」と思うような研究テーマが全然浮かんでこなくて,当初の博論の研究内容も中途半端で,「研究の道に進もうと決めたけど自分てこの道向いてないんじゃ…」と心折れそうになったことは何回もありました。研究の発表は何回もしましたが,自分が自信を持って発表に臨めたことは一度もありませんでしたし,論文を出しても自分が自信を持って多くの人に読まれたら嬉しいなと思う論文が書けたことも一度もありません。学振に通ったときも,博論が書き終わったときも,初めて国際誌に載ったときも,とにかくそれらの経験は「終わってホッとした」というだけで,それが「成功体験」になっているようにはあまり思えていません。どちらかというと,「私みたいな人でも学振に通ってしまったし論文が通ってしまったし博士も取ってしまいました」みたいに思うことのほうが多いかもしれません。就職したときも,運良く就職「できてしまった」という気持ちで,常に自分のポジションに対してunderachieve状態という認識があります。

カウンセリングに通いだしてから半年近くが経って,ようやくですが,最近は「それが今の自分だ」と思えるようになってきました。小学校のときにサッカーがうまくなれなくて挫折したように,バスケがしたくてバスケの強い高校に行ったのに,試合に出れなくて挫折したように,大学で英語が全然できなくて挫折したように,そしてどの挫折に対しても自分を受け入れて,そして次のステージに進んできたのと今の状況もきっと同じことなのではないかと考えるようになりました。今抱えている挫折感みたいなものも,自分を受け入れるタイミングが必要で,それがきっと今なんじゃないかなと。自分は人と比べて全然大したことないのだれけれども,大したことがないなりに,今の自分より未来の自分がすこしでも成長していることを目指して,目の前にあることを粛々とこなしていくしかないんだと思います。そう考えたら,人と比べて落ち込む必要もないし,自分がどれだけ頑張っているかを周りにアピールする必要もないと思うようになりました。自分の頑張りは自分のウェブサイトを粛々と更新していけばいいだけで,もし色んな人に読んでもらいたい論文が出版されることがもし仮にこの先あるとしたら,そういうのはSNSを通じてアピールすればいいやと。研究の知見をコミュニティやもっと広く社会に還元するのも研究者としての役割なので,そういうことは積極的にやっていってもいいとして,自分が頑張っていることは自分が認めてあげればよくて,人にアピールするものじゃないと。

おわりに

ただ,そうやって思えるようになった(自分でそう思っていると思いたい)一方で,プロフェッショナルとしてのアイデンティを保つためには今の自分を受け入れるのはなかなか難しいのです。もっともっと頑張れよと。こんなところで諦めてたら成長なんかしないぞとプレッシャーをかけてくる自分もいるんです。だからなかなか難しい。まあ「バランス」なんですけどね。

でもこれは,あくまで自分の方針で,それは自分のメンタルヘルスのためにするもので,自分がこういうことをここに書く必要もないのかもしれないですけどね。書くことで思考を整理したかったみたいなところはあります。そんなわけで,結局7500字の長文記事になりましたとさ。ここまで読んでくださった方,ありがとうございました。また不定期ですが記事を書くと思いますので,読んでやってください。





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