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20240302 春の音

 鹿児島への帰省から戻ってくると、隣のアパートが一面、灰色のシートのようなもので覆われていた。なんだろうと思っていたが、そのシートの裏側ではすでに建物の取り壊しが始まっていた。ある朝、外につながる換気扇を通してショベルカーの駆動する音が聞こえてきたのだ。そのアパートはもはや跡形もなく消え去ってしまって、土が露出し、さらりとした何もない空間に変わった。 
 自転車を漕ぐと、どこか生臭さに似た春のにおいが鼻に入ってきた。でもきょうは日の光もまばらで、気温も2桁になることがなく風が冷たかった。ダウンのフードをかぶった。季節のにおいがあるなら、季節の音もあるのだと思う。フードをかぶると自分の息づかいや外側にぶつかってくる風の音が響くだけで、春の音は遮断されてしまった。でも春の音とは具体的にどんな音なのか?ことばで説明することはたぶんできない。古くなったアパートを取り壊す鋭く硬い音、あれはもしかしたら春の音なのではないか、と思った。壊す音というよりは、新しいさら地が誕生して景色がひらけるような音だ。自宅にたどり着く直前の瞬間、そこにあったはずのアパートのぶんだけ広がった向こう側の景色が見える。

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