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ありがとう、お疲れ様、庵野監督、エヴァンゲリオン。

シン・エヴァ視聴後の感想+自分語り

エヴァンゲリオンが終わった。
3月8日に我慢しきれず見に行った。
はじめてエヴァを好きになれた。
二次創作を二本書いた。
今日までふせったーでさんざっぱら感想を書いてきたのでこんなの書く必要ないのだけど、心の整理がようやくついたよ、と記録する目的も込めてタイプする。
ようやくエヴァンゲリオンというコンテンツを好きになれた僕をここに記すことで、あの映画の本質に対する自分なりの考えとしたい。

エヴァンゲリオンは何だったか。誰かが、鏡だ、と言っていた。その通りだと思った。「新世紀エヴァンゲリオン」は庵野監督が、胸の底の醜い部分も上澄みのきれいな部分もなにもかもを曝け出してくれていると感じられるおかげでこちらも曝け出すことができる作品だ。そしてそれゆえに、エヴァについて語ろうとするとき、僕は熱くなる。どうしてこんなに熱くなってるんだと思うくらい興奮して、感想を話す友達と衝突する。衝突できるのは友達が僕を拒絶しないと、それはおかしいと言っても絶交しないと信じているからだけど、シン・エヴァまではそれができなかったことを思うと、この熱さはシン・エヴァにもらった熱量なんじゃないだろうか、とおもう。

しかしながら、エヴァの感想なるものは、鏡であるゆえにその人がどのようにエヴァに触れてきたかでまったく違う像を結ぶ。

僕がエヴァ本編にちゃんと触れたのはそれこそ3年くらい前のことだ。旧劇の劇場版は、見たのは一昨年じゃないだろうか。そのくらい浅い。けど、金曜ロードショーで序・破を見たのは2010年前後までさかのぼる。ぷちえゔぁとか、碇シンジ育成計画、あるいは同人誌やssにはそれ以前から原作も知らないのに触れてきた。

その意味でいけば、人生のなかで特別な位置にある。
けど、遠い作品でもある。

実際、シン・エヴァを見るまで、エヴァは好きになれない作品だった。

内戦期のスリランカで、家のなかで唯一の日本人として過ごし、飼い犬をなでながら「トトロ」や「ぼくらのウォーゲーム」のビデオを見つめていたら、湧いてきたネズミを発見するなりパッと飛びかかってくびり殺してしまう飼い犬の後処理をすべく中座せざるを得ない。そんな生活をしていたら、押井守が「迷宮物件 FILE538」のほうにリアリティを感じざるを得ないし、エヴァで描かれた人間関係をアニメで視聴するころには、ティーンエイジの葛藤や苦しみを脱却する手段を身につけていた。

そのせいもあって「どうしてこのフィルムは暴力的な拒絶と性への嫌悪と興味の自己撞着に悩んでるんだ、物語としてどうしてこの監督は希望を描かないんだ」と感じた。でも理解できないから、考えた。どうしてこうなっているんだ。庵野監督のことも調べたし、エヴァもシリーズを見直した。シン・エヴァを翌日に控えた夜にいても経ってもいられなくなって旧・新劇場版全6作を見返したりした。

シン・エヴァを見るまでに、理解が深まったと思う。本質的なところでこの作品はコミュニケーションの痛みと苦しみにどう向き合うのかというフィルムであると感じたし、新劇場版は「序」「破」で自己実現の必要性を描いた上で「Q」で行動が招いた混乱と向き合う人々の避けがたい錯乱したコミュニケーションの映画になったと感じた。

新劇場版がどういう結末を迎えるのかという期待と不安を抱いたまま劇場に足を運んで、そこで見たのは、つねに「自分から見た世界」のなかで生きてきた碇シンジという少年が、不条理に満ちた世界への怯えや恐れ、それとこの世界から消え去りたいという願望をこの世界は許してくれないという「存在」の不可逆性への怒りに、他者と言葉を交わすことで元気づけられていく物語だった。

それは奇しくも幾原邦彦が「ウテナ」で描いた結論であり、「さらざんまい」で描いたメッセージであり、「天使のたまご」を作った押井守が「東京無国籍少女」で出した結論に一致しているように思えた。

世界は、絶望するほどくそったれじゃあないし、期待するほどすばらしいものなんかじゃあない。でもそこにいる誰かは、つねに悪意だけを向けているのではなく、傷つき、痛み、苦しみながら、それでも生きようとしている。程度の差はあれど、それでも、それでも「生まれてしまった」ことから逃れられないゆえに生を肯定しているんだと。

陳腐という人もいる。納得できないという人もいる。けど、僕にはそのメッセージが押しつけがましい独善ではなく、まるで僕の手を引っ張って「この光の中へ一緒に来てくれ」と言っているように思えた。シンジが人々の葛藤の吐露を受け止めるとき、そこには萩原朔太郎のいう「愛」があった。

「人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。
 原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。
 とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。
 我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。」(萩原朔太郎「月に吠える」序文より)

私たちは「単位」である。そのことを拒絶する人々の誇大妄想こそがLCLの海へ溶ける末路であり、それは単位の消滅を意味する。しかしそれは「単位」であることを認めないことでもある。孤独を認めないことでもある。しかしそこに対立したのは、旧シリーズにおいては「共通」を認めない立場である。人が「ぽつねんと切りはなされた宇宙の単位」であるとした少年たちだ。そのコミュニケーションはATフィールドのぶつけ合いでしかない。交流を拒絶し自らを単位たらしめんと彼我の間に越えがたい溝を作りさらに城塞を作り近づく者あらば砲撃せんとする戦いとなる。「惣流・アスカ・ラングレー」という少女がそのようにしか世界と向かい合えず、同時にそれゆえに求める形で救われなかったことが、旧劇場版の魅力であり悲劇でもあった。

でも、新劇場版は違う。痛みや悲しみや怒りを自ら固有のものとして主張しながら喜びや感動は共有し祝福されたいと思う感性を持ってしまった少年碇シンジを描き出すことで、彼の目に僕らが同期できるようにチューニングする。結果としてそうなった、ではなく初めから意図してそうしたのが新劇場版だ。僕たちはシンジだ。そういう感覚があるからこそ「Q」は絶望の物語なのだ。だからこそ「シン」は上述の序文が示す「人間」の、生まれ持って備えてしまった性質を、碇シンジが認める物語になった。

「ガキ」と「大人」の対立の正体は、そこにある。自らの感性が世界のすべてであるとした少年が、その行動に打ちのめされ、言葉を失い、それでも「お腹が空いた」からものを食べるその姿に「そうだよな」と僕たちは感じる。大人になるということは、感性だけで世界は満たされていないと認めることだ。他者の存在を認めることだ。他者など存在しないとするのではない。他者は他者で固有の感性を持っていて、でも「共通」もあるんだ。そう認めたとき、僕たちは「大人」になれるんじゃないだろうか。

それを伝えるために描き出すために共感させるために「新劇場版」において僕たちはシンジに同期させられた。そして彼が苦難と絶望に打ちのめされながらそれでも立ち上がる姿を通じて僕たち自身も立ち上がらされた。そこには不可視だが、どうしても庵野秀明というひとの介助を、肩に感じざるを得ない。それがきっと庵野秀明というひとが得てきたことの恩返しなんじゃないかと想像することも許してほしい。それだけ、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖」という映画はあたたかかった。

まるで富野監督が「逆襲のシャア」で示せなかったアクシズの光の暖かさのような、光に満ちたフィルムだった。

そこに「大人になれ」という独善的で一方的な最後通牒はなく、「一緒に行こう」という手のひらがあった。それが、とても嬉しかった。

そんな映画を見ることができて本当に良かったと思う。人々が世界とのつながりを切断され、家という狭い世界を通じて他者とつながらないといけなくなったこの2021年に、これがあって本当に良かった。

ありがとうございました。

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