見出し画像

ペンを手に、秋の訪れを待ち望む

 涼しい日が続いて、大好きな季節が来るんだなぁとぼんやり考えていた。あと3月と少しに迫った最初の試験のことを、同級生らがしきりに話している。空を眺めて聞き流しているくせに耳から入る情報の力はそれなりで、胸の奥に仄かに不安を広げてしまう。そんなわけで、たまには他のことを考えようか、と。

**

 ずっと前から日記を書いている。広くも狭くもないスペースに、黒のボールペンかシャーペンでさらさらと。

 ふとした瞬間に思考や感情を書き留めるのは昔からの癖だ。文字を書けるようになった幼稚園生の頃からずっと。溢れてしまいそうなくらいいろんなことを考えているのに、口にするのは不器用で臆病。私の奥の方で、いつまでも言葉がくつくつと煮込まれている。飲み込んだ言葉をひっそりと文字にするようになったのは、私にとって自然なことだった。当時の支離滅裂なアウトプットの欠片は今も部屋の至るところに眠っている。いろんなノートやメモ帳や紙切れに走り書きしていた。口に出す代わりに文字に起こしていただけとはいえ、心を落ち着ける方法のひとつとして大切な儀式だった。読み返すことを想定していないそれらは、なんというか書くためだけに書かれたもので、読むための文章ではなかった。ぐちゃぐちゃな文字の羅列を残すのは恥ずかしくて、万一親にでも見られたらと恐ろしくもあった。子供が思っているより大人に隠し事をするのは難しいのだと、もうずっと前から知っていた。先日手帳の端に見つけた6歳の頃の記述──6歳、と実際に書いてあったことで分かった──は『誰がこう言っていてこう思った』とか『これのここが好き』とかで、大して心配するような言葉ではなかったのだけれど。ともあれ書くだけで満足で、その後は捨ててしまうことも少なくなかった。

 それがいつからか日記帳の体を成すものに変わっていったのはなぜだろうか。ある程度成長して上手く隠せるようになったからかもしれないし、あるいは単にばらばらと書くのが面倒になっただけかもしれない。だんだんとひとつのノートに書き込むようになって、いつしか日付もしっかり記すようなちゃんとしたいわゆる日記という形のものに変わっていった。いっぱいいっぱいになったときにだけ潰れないために吐き出す場所ではなく、穏やかに日々のことを書き出す普通の日記。
 中学時代は、デジタルの媒体に書いていた。ベッドの中でだって書けるのは手軽だったし、おかげでその頃の日記は珍しく高頻度に記されている。しかしデータに起こすと、書きやすい反面消しやすい。ばーっと書いた後はすっきり消してから寝る、なんてことも多かった。正直なところやはり、日記は書くためだけに書いていて読むことはどうでも良いという考えは昔から変わらなくて、特に残すことへの執着はなかった。だから衝動的に消しても不都合はなかったのだけれど。

 それなのに結局のところ今現在、どういうわけやらぺらぺらの紙に書き込んでいる。理由を述べるなら、私が今高校生だからだ。おかしな理屈だが実際そうなのだ。つまり、学生時代のどうしようもないぐずぐずした頭の中を後から見ることができたら面白いだろうな、と思ってのことだ。いわゆる思春期だとか、そうでなくても気分の変わりやすいような学生時代の思考はきっと後から思えば面白い。揺れ動く感情に弄ばれるこの年齢の日々を消さずに残しておきたくなったのだ。きっとこの先だって突然明瞭な思考判断ができるようになるわけではないだろうが、いつか笑い話になるかもと思いながら書くのも悪くない。私のことだから卒業したら一思いに廃棄してしまう気もするけれど、それはそれとして。
 後で読み返すかもしれない、と思って書く日記は、それでもやはり今までとさほど変わらない。書いているときは書くためだけに書いているし、いつか捨ててしまおうと思って書いている。そうでないと口にできなかった言葉を文字にするのは躊躇われるのだからしかたない。


 白い紙の前で、私は滑らかに話す。そこには私を咎める人も私のせいで傷つく人もいなくて、どんな言葉も平等に記させてくれる。いつもはしっかり熟してしまうまで待ってから外に出す言葉を、自由に操って組み立てる。

 話すことが嫌いなわけではないけれど、自分の思いを伝えるときにはたっぷり時間をかけて練り上げたいと思ってしまう。この世の会話が全てを筆談なら、私はもう少し上手に話す人になれるだろうに、なんてよく考えるくらいには文字のほうが向いている気がする。
 繰り返すようだけど、話すこと自体はそれほど苦痛ではない。苦手ではあるのだけど、人より下手なだけで、上手くなりたいとは思うけれどかまわない。話すことというより、自分の思いを伝えるのが極端に苦手なのだ。当たり前だが、必要とされる場面では感情に関係なくできる限りきちんと発言する。だがそれはあれこれ逡巡したうえでのもので、後から何度も振り返ってはため息を漏らしてしまう。後悔するくらいなら口を閉ざすほうが遥かに楽で、でもそんなままでは駄目で。

 日記のアウトプットは、練習でもあるのかもしれない。文字にするところから始めて、口に出せるように。口に出したときの罪悪感を減らせるように。会話を厳しい推敲なしに行えるように。

 とはいえ何の役に立っていようがいるまいが、結局のところ好きだから書き続けているのだろうと思う。

 始まりも終わりも掴めない、穏やかな季節がやってくる。
 逞しくならねば、と。


この記事が参加している募集

習慣にしていること

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?