自分を磨くということ
誰もが一度は通る道。それは自分磨き。
自分という存在の価値を上げようと、古今東西いろいろな方法が確立されてきた。
ある者は体を鍛え、ある者は知性を磨き、ある者は芸術に触れ、ある者は異性と熱を上げる。
だれもが少しでも、昨日の自分より輝こうと磨きをかける。
間違いなくその行為は、人の歴史を進めてきた。それが無ければ、人の世は発展してこなかっただろう。
そしてそれは物語の世界でも同じだ。
物語の中のキャラクターたちは大なり小なり、成長する。
物語が進むというのは成長するということでもある。
時に、前より状況が悪くなるという変化によって物語が進むこともあるが、大抵最後は何かしらの答えに辿り着くという終わり方をする。
英雄は旅立ち、成長して何かを得て、帰ってくる。
これが、古くからある基本的な物語の形だ。
人はとにかく成長を求める。その方法の一つが自分磨きなのだ。
でも、ここであえて考えたい。
自分磨きとは何ぞやと。
体を鍛えること、知識を蓄えること、それによってお金を稼ぐこと、そのお金で家や車を買うこと。
これらは皆、成長と呼べるものだ。
つまり、今までの自分に無かったものを手に入れるという形である。
だが、これは『磨き』だろうか。
今述べたのは、全て後から自分に取り付けたモノたちである。
しかし『磨く』とは本来、汚れや埃を落とし、除くことである。
次から次へと自分にあれこれと、プラスしていくことは本当に「自分磨き」なのだろうか?
むしろ、余計なものを落としていく作業こそ自分磨きなのではないか。
その余計なものとは、思い込み、妄想というものかもしれない。
なぜ、体を鍛えようと思ったのか、なぜ知識を蓄えようと思ったのか、なぜお金を稼ごうと思ったのか。
もしかしたら、その根底には恐怖があるのかもしれない。
こうならなければいけない。そうなれない自分に価値はない。
その思い込みがいつ根付いたのは分からないが、たぶんその根は深い。
心の中の余計な雑草を抜くことこそ、本当の意味での自分磨きだと僕は思う。
物語の中でも、修行や特訓で新たな力を身につけたキャラは魅力的だ。
だけど、それと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に、迷いが無くなったキャラも魅力的なのだ。
ダイヤの原石は削って削って、あの輝きを出す。
才能のある人は、大きいカラットのまま大量の輝きを放つだろう。
そうでない人間はもっと削って、かなり小さくなるまで削らないと輝きを放てない。
でも、たとえ輝きの量は違っても、輝きの質に違いはないはずだ。
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