苦労することはエライこと?
物語は起伏があるのが普通だ。
起伏の大きさは作品ごとにいろいろだが、シリアスな物語なら、主人公が暮らしていた平和な町に突如戦争の火が襲い掛かってきて、親しい人を殺された主人公が復讐のために立ち上がるとか、
ギャグ漫画でも、最後のオチに向かって適度な緊張を作ったりする。
どんな物語にも起伏はある。
そして人は起伏があるものが好きだ。
それは現実の世界でも言える。
人は時に、金持ちとか成功者とか呼ばれる人に対して、鼻持ちならない感情を抱いたりする。
でも、さっきも言ったように人は起伏のあるストーリーが好きだから、
金持ちになったり成功者になったりする前に、
そういうストーリーがあったりすると、途端に許そうという気持ちになってしまう。
その起伏というのは何だろうか。
努力?確かにそれもある。
ドラゴンボールしかり、努力して修行したキャラが強さを手に入れるから読者は共感する面もある。
だが何も苦労することなく、最初から強い力を手に入れるパターンが共感を呼ばないわけでもない。
なろう系と呼ばれるジャンルはそのうちの一つだろう。
では努力よりも、人々に受け入れられる起伏とは?
それは、苦労だ。
人は他人の苦労話が大好きだ。苦労した人はすごい人、エライ人と見る。
今はどうかは知らないが、昔甲子園が開催されたくらいの時期に、
「お母さんありがとう」みたいなタイトルのテレビ番組があった。
母子家庭で、母親が女手一つで育てた息子が
甲子園出場を果たしたというストーリーだ。
もしこれが、大富豪の家に産まれて、小さい頃から専属のコーチが付いていて、小中学校は学校のクラブには所属せず、専門的な練習を積み、その甲斐あってか、甲子園常連の高校5つくらいからスカウトを受け、その中の一つに進学し、一年生からエースで4番を任され、本人は特に苦労を感じることなく当たり前のように甲子園に出場を決め、お母さんありがとうと言ったらどうだろうか?
前者も後者も、甲子園に出場しているし、親への感謝も本物でそこに差はない。
だけど人々が求めるのは圧倒的に前者だろう。
だから、人の共感を呼ぶようなストーリーを作ろうとしたら、いかにキャラクターに苦労をさせるかということなのかもしれない。
それは創作なら、そうなのかもしれないが、現実で考えると、苦労しなければ成功が認められないというのは、何とも心が狭い話のように思える。
別にいいと思う。
何となくやってみたらできた。他の人がなかなかできないことをあっさりできた。
それはその人の才能だ。それは活かさないとむしろ人生がもったいないと思う。
人は、そんな自分にとって当たり前にできることで生きていけばいいと思う。
苦労は前提ではない。ただたまたま苦労しただけであって、それで本人がエライかどうかなんて決まらない。
いけないのは、苦労しなければと囚われることだと思う。
他の人たちが一生懸命登って越えようとしている壁に対して、自分だけが、その壁に通り抜けられる穴を見つけたなら、そこを通っていいのではないか。
そんなときに、苦労しなくちゃいけないと、他の人たちと一緒になって壁を登る必要があるのだろうか。
もしかしたら、その穴は神様が用意してくれたもので、その穴を通った分余った力で他の何かをしろという、はからいなのかもしれないではないか。
苦労は美徳かもしれないが、それは周りが勝手に評価するものであって、自分に課すものではない。
苦労するときは苦労するし、楽なときは楽。ただそれだけ。それがたまたま起こっただけ。
苦労しなければ半人前なんてことはないと思う。だから気楽にやっていけばいいのではないかな。
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