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Speak,Easy.

奈良に行くなら、Vol.3


駅の周辺に戻るころには、山の端にうっすら明るさを残す程度に空は暗くなっていた。商店街の路地裏に入ると、朝から営業している立ち飲みのお店がある。すでに先客があり話に花が咲いていた。店の奥に行き、瓶ビールとグラスをもらう。もずく酢、枝豆の塩ゆで、ちくわときゅうりのサラダが小鉢に入ったセットをつまみとしていただく。体が内側からゆっくりと解れていくことを実感する。瓶はすぐに飲み干された。せっかくなのでお店の大将におすすめを聞くと、日本酒を用意してくれるようだ。ちょうど新酒の季節であること、奈良が清酒発祥の地であることを教えてくれた。奈良市の東南にある正暦寺では、古くから僧坊酒と呼ばれる酒を醸造していた。当時は濁り酒が主流であったが、乳酸菌による殺菌、酒を数回に分けて発酵させる段仕込みを行い、それら全てを精白米で実施したことにより清酒が生まれたとされている。そして、正暦寺で作られた日本酒の元である酒母は「菩提もと」と呼ばれ、県内7社の酒造会社が、この菩提もとから日本酒を醸造している。

大将は黙って冷蔵ケースから四合瓶を1つ取り出すと、静かにグラスに注いだ。先ほどの菩提もとから醸造されたどぶろくである。全く濾過しない、酒そのものの姿をまずは味わってほしいとのことだった。お米の形がうっすらと分かるのでお粥のように見える。一口飲むと、お米の粒を感じるがすぐに溶けてなくなり、キリッとした味わいの後に、花のような淡い香りが漂って消える。「うまいでしょ。でも、感動したからって一本買って、いい感じに冷やして家で飲んでも、このうまさがどっか行っちゃうんですよね。」うまい酒は旅をしないと聞いたことがあるが、どうやら本当らしい。たまらずに同じ銘柄の純米酒もいただいた。味は言うまでもない。

「奈良はバーがたくさんあるんです。なかなか聞かないでしょ。よかったら近くのバーを教えますよ。マスターがとても素敵な方なんです。」商店街のアーケードを抜けて、住宅街の細い路地裏を進む。突然、暗がりから二人組の男がスッと路地に出てきた。背後からは白いバーコートに身を包んだマスターと思しき人が、FBIが使いそうなほど眩いLED懐中電灯で彼らの足元を照らしていた。ふとマスターと目が合うと、快く店内へ迎えてくれた。深い庇と大きな格子窓が、入り口を隠すように誂われていた。街灯も少なく看板もないため、ここがバーであるということは、事前に聞かされていなければ分からない。明治の頃に建てられた町家を改装したのだという。

店内は大きな一枚板のカウンターに、しっかりと腰元を包む布張りの椅子が数客。奥には念入りに手入れされた坪庭が静かに照らされている。奥の席に通されると、目の前は床の間のように仕立てられており、一服の日本画が掛けられ、ガラスの一輪挿しに花が生けてある。いわゆるオーセンティックな形態のバーではあるが、町家のもたらす安心感のおかげなのか、岩のようにステレオタイプな頑固さは微塵もない。たっぷりとした沈黙を肴に、酒を友として時間を過ごす場所である。

グレンモーレンジーのハイボールが供される。ロンググラスの中に、同じくらいの高さに成形された直方体の氷が、静かに置かれる。メジャーカップにウイスキーが注がれる。目を瞑って何度注いでも正確な量が分かりそうなほど、動きに一切の無駄がない。いつのまにか炭酸水がグラスに注がれていた。おそらく新しいものを開栓したはずだが、音らしいものが聞こえなかった。もしかしたら、先ほどの日本酒が効き始めたせいで、僕の耳が遠くなっていたのかもしれない。だが、ここのマスターなら本当に無音のうちにハイボールを作ったとしても、何の疑問も抱かないだろう。味わいもいたって控えめだ。薄く作られているということではない。グレンモーレンジーが持つ柑橘の爽やかな香りが、炭酸水で柔らかく包まれている。カクテルを通じて人柄が垣間見えるような気がするのは、おそらく僕の思い込みではないはずだ。

やがてグラスから氷の音だけが響く。マスターがやってくる。マティーニをいただけますか。かしこまりました、と微笑みの余韻だけを残して去っていく。ミキシンググラスに氷がすきま無く積み上げられる。音もなく入念にステアされ、やがてグラスは冷やされる。目的を終えて溶けた水を切る。基本のレシピでは、ジンとベルモットが使われるが、離れたところから見ていたせいか、詳細まではよく分からない。あるいは酩酊の淵にいたせいかもしれない。やがて全て厳密に計画的にステアされたマティーニが近づいてくる。横に広いショートグラスに静かに注がれ、傍には種を抜いたグリーンオリーブと、グラスに入った水が添えられる。これ以上何を望むだろうか。

グラスの縁を持って、静かに口に運ぶ。先ほどとは対照的に鋭い味わいである。だが、頭の中をアイスピックで突き刺すような、アルコールの不快さはない。ジンの味わいだけが残り、余韻はいつまでも柔らかい。

店内は、地元の常連と思われる男女が談笑していたが、しばらくすると欧米の男女が訪れた。おそらく、近所の酒場から教えてもらったのだろう。マスターを含めて2人のサービススタッフが丁重に対応している。客席は程よい距離感があり、互いに干渉されることなく、それぞれの時間を過ごすことができる。僕はというと、手持ちの文庫本を読むことにした。明日になれば内容を忘れているだろう。だが、そんなことはたいした問題ではない。人が楽しそうにしている気配が感じられる時間は、言葉を交わさずとも十分に満たされた気持ちにさせてくれる。また新しく人が訪ねてきた。ここが潮時だろう。グラスに残ったマティーニを飲み干す。預けていた上着を受け取り、椅子をカウンターに戻す。どんなに忙しくても、マスターが最後まで見送ってくれるようだ。手短にお礼を言って、その場を後にする。

親密さとは、時間や言葉数が多ければいいというものではないように思う。限られた時間に、必要だと思う量が、規則正しく並べられる、入念で緻密な親密さというものがある。バーの入口に誂えられた格子窓のように。あるいは寺社仏閣の石畳のように。

「おにいさん、だいぶお酒好きそうだから、今度は酒蔵をまわったらええんちゃいますか。中を見学させてくれるし、利き酒もできますよ。で、ついでに、またうちに寄ってくださいよ。」

近づく人を温かく迎え、その余韻はいつまでも消えない。
奈良は、そういうところなんだと思う。

(了)

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