手段としての仕事
ドイツでは、「仕事はあくまで生活の糧を得るための手段」である。
だからそこが目的ではないし、ゴールではない。
日本はどうであろうか。長時間労働による過労死や自殺といった問題を多く抱えている現状を考えると、働き方に関して改善が必要であることは明白ではないだろうか。
環境としての企業はもちろんではあるけれど、個人として「働く」という行為に関して定義を変える必要すらあるのではないかと思う。
仕事によって、個人の生活を犠牲にしすぎてはいないだろうか?
そもそも何のために働くのかという目的がしっかりと定まっているかどうかによって、全ての意味合いが変わってくるだろう。
目的があって長時間の労働を甘んじて受けているのならまだしも、大半はそうではないのではないだろうか。
「働いている」のと「働かされている」のでは大きな違いだ。
何億と稼いでいて分単位で忙しく働いているような人たちは決して「働かされていない」と思う。
うちから湧き出る凄まじいエネルギーによって、自分が求めているものを常に追求していると思うんだ。
しかし、「働かされている」人たちにとって長時間労働は自分の身を削る行為でしかない。
ドイツ人は「個人の生活を仕事のために犠牲にはしない」という原則を持っている。
同じ成果を出すための労働時間は短ければ短いほど良いと考えられている。
常に効率性を追求している。
そしてそれに対して社会的な合意が出来上がっているのだ。
産出されるアウトプットが変わらないのであれば、労働時間を減らすことは悪いことだとみなされない。
日本では、「仕事が終わっているのに上司が帰らないから自分も職場にいなければならない」とか「給与が低いために残業をすることによって手取りを多くする」なんていう人もいるのではないだろうか。
ドイツでは2〜3週間まとまった休暇を取るのが当たり前である。
なぜ、日本よりも働く時間が極めて少ないドイツが日本よりも生産性が高いのだろうか。
そしてそうした休暇を全員が楽しんできてねと送り出してくれるのだ。
それでも日々の業務は滞りなく進んでいる。
日本はチームワークに長けていると思う。しかし、これからの時代はそのチームワークは尊重しつつ、個人主義に対しても追求していくべきではないだろうか。
組織の中で個人がそれぞれの持つタスクに対して全力で取り組む。
その集合体として組織があるべきではないだろうか。組織の決められた個人への権限から逸脱した行為は罰する必要があるとは思うが、
個人が考えて行動することが効率を上げていくことに重要な意味を持つと思う。
そして、現代多くの人が取り組み始めているシステム化・自動化だろう。
日常の生活の充実のために、仕事が手段としてある。
目的と手段を履き違えてはならない。
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