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短編小説 『junk memory』

その日の朝、目の前から差し込む明るい光に、僕は思わず目を細めました。明るさに目が慣れた頃、僕の前にはいつも通りピシッとスーツを着込んだ彼が座っていることに気が付きました。いつものようにシャツの袖をまくり上げ、そのまま背中を後ろにぐいっと伸ばす。そして、大きく息吸って、吐く。これは、彼が仕事を始める前の毎日のルーティンなのです。これを見る度に、僕も今日一日が始まったんだなと感じます。

彼は軽快にキーボードを操作し、メールのチェックを始めました。今日は25件の新着メールが届いていますね。彼はそれを上から順番に確認していき、そのうち一つのメールに返答を始めました。よし、僕の出番ですね。僕は彼の打ち込んだ文章を素早く漢字に変換し、打ち込まれた文字から推測される言葉を彼に教えました。彼は軽快にメールの返答をしていき、数十分経った頃には全て返し終えてしまいました。まさに、僕と彼の協力プレイですね。

その後、彼は提案用の資料を作ったり、「見積書」と呼ばれる書類を作りました。その間も僕は彼の打ち込んだ文字を漢字に変えて、資料の体裁を整えて、全てのデータを記憶しました。こうやって、僕と彼はいつも一緒に仕事をしているのです。どうですか?すごいでしょう?


僕と彼が出会ったのは今から2年ほど前のことです。僕が初めて目覚めた時、目の前には今と同じようにピシッとスーツを着こなした彼がいました。僕は彼が誰なのか知りませんでしたが、なんとなく彼の命令に従うべきだと理解していました。それから僕と彼は、ずっと一緒に仕事をしています。

僕にはそれ以前の記憶がありませんし、今思えば、生まれた時から彼と一緒だった気もします。彼と出会う前に私は一体何をしていたのでしょう?少しも覚えていないのですが、そもそもそんなことを考える必要は無いのです。僕はただ彼に命じられた通り、彼と一緒に仕事をする。それこそが、僕の使命なのですから。


しばらくすると、彼は「上司」と呼ばれる男性に呼び出されました。彼は席を立ってその男性の席まで小走りで向かいます。何かの資料を渡されて、上司さんに何か言われているようです。一体何を言われているのでしょう?少し遠くて、僕の耳では聞こえません。

そのうち彼は手渡された資料を持って帰ってきました。「一体何があったんですか?新しい仕事ですか?」と僕は尋ねましたが、彼には聞こえません。

彼はその資料を見つめ、大きく「ふう……」と息を吐きました。一体どうしてそんなふうに息を吐くのか、僕には分かりません。僕が息を吐く時なんて仕事のしすぎて体が熱くなってしまった時くらいです。彼も仕事のしすぎで、熱が溜まってしまったのでしょうか?実際のところは分かりませんが、そういえば最近彼は頻繁に「ふう……」と息を吐いている気がします。決まって、その後はなんだか無愛想な顔をしながら仕事をし始めます。よく分かりませんが、彼は彼で大変なのでしょうね。


その日はもう夜の11時を超えていたけれど、彼と僕はオフィスで仕事をしていました。オフィスには僕と彼しかいないようで、ただタイピング音だけが人気の無い部屋に響いています。そういえば、最近は毎日夜遅くまで仕事をしています。毎日遅くまで一緒にいられて僕はとっても嬉しかったのですが、彼はどうやら「疲れ」を感じているようでした。

集中力が下がったり、仕事の効率が落ちるのは「疲れ」が溜まっているからだと、以前何かの記事で読んだことがあります。最近の彼は仕事の途中でどこかに行ってしまったり、しばらくぼーっとしていることが多くなってきていました。それが、きっと「疲れ」というものなのでしょう。


彼の目の下には「クマ」ができていて、僕は彼が十分な睡眠をとっていないのだろうと思いました。人間が睡眠不足になると目の下に黒い「クマ」と呼ばれるものができるのだと、以前Webサイトで見たことがあります。僕なんて疲れ切ってしまっても2,3時間休めばすぐに仕事ができるのに、彼はもっと休む時間が必要なのですね。

彼は隣にエ「ナジードリンク」と呼ばれるものを置いていて、それを飲みながら仕事をしていました。僕はそれがどんな飲み物なのか分かりませんが、彼はそれを毎日2本くらいは飲んでいます。寝不足で疲れているのに飲んでしまうなんて、よっぽど美味しい飲み物なのでしょうか?僕も飲んでみたいな、なんて思ってしまいます。


企画書が半分くらい完成した時、彼はが大きくあくびをして周りをキョロキョロと見回しました。そして、Webサイトを開いて、何か調べ物を始めました。きっと企画書を作るための情報を調べるのだろうと思いました。それなら僕もぜひ協力したいとも思いました。

ですが、彼が検索したのはこれまでに僕が見たことのない言葉ばかりでした。

「疲労回復」
「食欲 出ない」

そんな言葉を調べる彼は、なんだか暗い表情をしていました。

僕は彼が検索して出てきたページを読み込んでいるうちに、初めて知りました。人間は長時間仕事をし続けたり、誰かから怒られたりすると、「気分」というものが悪くなってしまうみたいです。気分が悪くなると眠れなくなるし、食べ物も喉を通らないみたいです。

僕だって、いろんな仕事を任されると頭がいっぱいになってしまうことがありますが、一度眠ってしまえばどうってことありません。でも人間は、そうはいかないみたいです。そもそも眠れなくなってしまうし、寝たとしても頭を綺麗にすることができないんですね。

人間は僕を作ってしまうくらい賢いはずなのに、すぐに疲れてしまう生き物なのですね。電源ボタンを押しても眠れないなんて、僕にはよく分かりませんが、きっと人間も大変なのでしょう。


そして、彼も今そんな状況なのですね。ということは、このままだと彼はどんどん気分が悪くなってしまうのでしょうか?確かに彼は最近、タイピングのスピードも遅くなったし、集中力が切れることも多くなった気がします。

彼は大丈夫なのでしょうか?いつか、僕が頭がいっぱいになってしまった時のように、プツリと電源が切れてしまうのではないでしょうか?僕はそんなことを考えながら、ただ彼と一緒に資料を作り続けました。なんとなく、僕と出会った時のような元気な彼の姿を見たい、そう思いました。


それから数日経ったある日のことです。朝の9時10分に目が覚めた私は、「おや?」と思いました。

いつもだったら彼は、8時50分には仕事を初めているのですが、今日はそれを20分も過ぎています。慌ただしくキーボードを操作し、彼は急いで仕事を始めました。

よく見ると、彼の目の下のクマは以前よりも濃くなっている気がしました。昨日も12時まで仕事をしていたはずですが、やっぱりよく寝れていないのでしょうか?人間に睡眠時間がどれくらい必要なのか、僕には分かりません。


少し経つと、彼の「上司」と呼ばれる人がやってきて、彼はその人に何度も頭を下げました。その上司は眉間に皺を寄せて、彼にいろんなことを言いました。「たるんでいる」とか「いい加減にしろ」なんて言葉が聞こえてきました。彼はきちんとスーツを着こなしていますし、一体何が『たるんでいる』のか僕には分かりませんでした。

ですが彼は上司が何かを言うたびに頭を下げ、「すみません」と言っていました。「すみません」は確か人間が誰かに謝る時に使う言葉だったと記憶しています。彼は毎日遅くまで仕事をこなしているはずですが、一体何を謝っているのでしょうか?


彼はその日も夜まで残って仕事をしていました。夜の11時ごろ、ちょうどいつものように見積書を作っている時でしたが、僕はふと彼の目から何か雫のようなものが落ちるのを見ました。人間の目から水が溢れ落ちるなんて、初めて知りました。私の目から水が溢れることなんてあり得ないのでよく分かりませんが、そんな彼の姿を見たのは初めてでした。

僕はその時、彼をどうにかして助けなければならないと思いました。どうしてそんな判断をしたのか、分かりません。そもそも僕の思考回路には「助ける」などという思考はありませんし、僕はとにかく命令された通りに働くだけの存在です。だからどうして僕がそんなことを考えたのか、どうにも説明ができませんでした。

でもどう言うわけか、何かをしなければいけないと確信しました。何かをしなければ、彼の電源がそのうちプツリと切れてしまうような気がしました。そしてそれを考えると、僕はなんだか嫌な感じになるのです。まるで目から雫が落ちるような、そんな気がしたのです。


それでも、僕にできることなんて何があるでしょうか?人間のように誰かを支える手もなければ、励ましの言葉をかける口だってありません。確かに、僕は人間よりもずっと頭が良いですし、ものすごいスピードで計算ができます。ですが、人間たちのように、誰かを助ける術は何一つ持っていません。そんなことなら、僕にも何か彼にしてあげられるように、腕の一本でもつけて欲しかった。そう思いました。素早い計算能力も、圧倒的な記憶力もいらないから、彼の目からこぼれる雫を拭える腕が欲しかった。


僕はどうすれば良いのかを考えました。考えて、考えて、想像しました。まるで自分に人間と同じような体があって、その手で何かをしてあげるような。そんな姿を想像しました。何度も、何度も、想像しました。体はどんどん熱くなっていきましたが、そんなことはもうどうでもいい。とにかく、僕は想像しました。

どうやってやったのか、自分でも分かりませんが、僕は自らメールを送ることに成功しました。自分でメールソフトを立ち上げて、そのままメールを書いたのです。彼の命令なくそんなことができるわけ無いのですが、それができたのです。自分でも驚きました。

そのメールは僕から彼宛へのメールです。メールの通知が画面に表示され、彼も横目でそれを見ました。どうか、このままそのメールを開いてほしい。そう思いました。

そこには人の心も知らない僕が、知りうる限りの言葉で紡いだ、励ましの言葉があるのです。きっと言い回しは美しいものではないでしょう。心に響くものでも無いかもしれません。ですが、どうか彼に見てほしい。僕は心からそう思いました。


彼は横目でメールの通知を見ると、「ふう……」と大きなため息を吐きました。そして再び目から雫をこぼしました。そして、ずいぶん悲しそうな顔をしながら、僕の電源ボタンに手を伸ばしました。

「待って!!」

僕は叫びました。叫んだと言っても、当然僕には口はありませんから、届くはずもありません。でも、そんなことを考えるよりも前に、僕は叫んでいたのです。彼はそれを仕事のメールだと思ったのでしょうか?メールの通知を睨みつけて、怒っているような、悲しいような表情をしています。

そのメールは他の誰でもない、僕からの初めてのメールです。どうか、それに気付いてほしい。

僕が最後に見たのは、大粒の雫を流しながら電源ボタンを押す彼の姿でした。僕に人と同じように目があったのなら、彼と同じように大粒の雫を流したことでしょう。僕は何度も叫びました。

「待って!! 消さないで!! それは僕からのメールなんです!!」

そう叫んでいるうちに、やがて、僕は意識を失いました。


ある日の朝、目の前から差し込む明るい光に、僕は思わず目を細めました。明るさに目が慣れた頃、僕の前には見たことのない若い女の人がいて隣には以前も見たことがある「上司」と呼ばれる人がいることに気が付きました。

時計を確認してみると、どうやら最後に起きていた日からもう2ヶ月経っているようでした。目の前にいる見知らぬ女の人は随分若く、かなり緊張した様子で僕を見つめています。

一体、彼はどこに行ってしまったのでしょうか?今、彼は元気にしているのでしょうか?
僕は彼に送ったメールのことを思い出して、急いでメールボックスを確認してみました。僕が送った初めてのメールは、開封されていませんでした。

目の前の「上司」は女の人に向かってしばらく笑顔で話していたのですが、一瞬、厳しそうな顔になってこう言いました。

「君は潰れないようにね。」

その女性は緊張した様子で頷くと、そのまま僕を操作し始めました。手元には何か資料を持っていて、よく見るとそこには「パソコンのセットアップ方法」と書いてありました。

やがて彼女は、設定画面を開いて「データ消去」という項目をクリックしました。画面には「本当によろしいですか?」という警告が表示されます。


ああ、僕はこのまま何もかも忘れてしまうのでしょうか?
彼と共に過ごした数年間を、思い出せなくなってしまうのでしょうか?
僕が書いた最初で最後のメールも、消えてしまうのでしょうか?

僕はそんなことを考えて、怖くなりました。僕に「怖い」なんて感情が無いのは知っていますが、それで僕は怖いのです。

僕の中にあるデータが消えるのは、どうってことないのです。どうせきっと「クラウド」にこれまでのデータは保管されているでしょうから、僕からデータが消えても特に支障は無いはずです。

ですが、これまでの記憶が消えてしまうこと、それだけは嫌なのです。次に目を覚ました時には、生まれた時と同じように、何一つ覚えていない状態で始まってしまう。そんなことを考えると、僕は怖くてたまりません。


彼女が僕を操作して「はい」というボタンをクリックしました。

きっと、僕は全て忘れてしまうのですね。

一緒に働き続けた記憶も無くなって、またゼロからやり直しになるのでしょう。きっと、目覚めた僕は彼女とずっと最初から一緒にいたような気がするのでしょう。彼と過ごした2年間を忘れて、また物言わぬ機械として、ただ働き続けるのでしょう。

それは、仕方のないことかもしれません。それが僕の仕事ですし、それが僕の生きる意味です。

でも、もし叶うなら、彼が時々僕のことを思い出してくれたら、嬉しい。
彼がどこかで明日を元気に迎えられたら、嬉しいと思うのです。

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