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風呂上がりに前歯が吹っ飛んだ話。

僕が社会人2年目の時の話だ。

当時僕はIT系の会社に勤めていて、いつも夜遅くまで仕事をしていた。その日も夜まで仕事をしていて、かなり疲れた状態で自宅に帰ってきた。当時の僕は仕事終わりにコンビニかスーパーで弁当を買って帰るのが日課になっていた。今思えばなんとも不健康極まりない習慣だ。

その日もいつもと同じようにスーパーに寄って、安売りになっていた弁当を手に取った。その時、見慣れた銀色の缶が僕の視界に入った。「ドライ」「生」「辛口」と書かれたその缶を見て、僕の喉が唸る。
きっとこの弁当と一緒に銀色の缶に入った黄金の液体を飲み干せば、今日は気持ちよく寝られるはずだ。僕は財布の中身を確認して一瞬迷ったのだが、誘惑には抗えず、最後にはその銀色の缶を手に取ってレジに向かっていた。

家に帰った僕は遅い夕食を楽しんだ。弁当を頬張り、黄金に輝くビールで流し込む。どんな弁当だって、ビールと一緒なら全て美味い。むしろ、ビールがメインで、仕方なく弁当を食べているような感覚だ。僕は幸せな気持ちで弁当を完食し、ビールもグビグビと飲んでいった。これぞ、サラリーマンのささやかな幸せというものだろう。

食べ終えた頃にはもうかなり遅い時間になっていたから、僕はそのまま寝てしまいたい気持ちだった。明日の朝にシャワーを浴びて会社に行けばいいだろう。そんなことを考えていた。
だが、ギリギリのところで風呂に入ろうと決意した。汚れた体のままベッドに寝るのは気が引けるし、今さっぱりとした状態で寝た方がずっといい。そう思った僕は重い腰を起こして風呂に向かった。

その日は冬真っ盛りだったから、どうしても湯船に浸かってから寝たかった。僕は湯船に湯を張って、優雅なバスタイムを堪能することにした。

さっきの晩酌のせいで幸せな気分になっていた僕は、いつもより長風呂をしてしまった。まあ、お湯に浸かるのは健康に良いと言うし、疲れを取るためにもしっかり体を温めたほうがいいらしい。だからそれほど気にせず、しばらく経ってから湯船から出て、風呂のドアを開けた。

しかし、立ち上がった瞬間に、頭がぐらっと揺れるような感覚を覚えた。

「長風呂しすぎたかな、少し座るか……」

と思ってとりあえず湯船に腰掛けようとしたのだが、再び頭が大きくグラっと揺れた。地面が近づいてくるような感覚になる。

「これはまずいぞ……!!」

と直感的に思った。これまで風呂に入った後に立ちくらみがすることはあったけど、頭がグラグラと揺れるような感覚になるほどではなかった。いつもとは違う違和感を感じて、僕は冷や汗をかいた。

こう言うとき、僕は無駄に冷静だ。僕は今考えられる最悪の事態を想像した。
この場で湯船に顔を突っ込んで倒れてしまったら一大事になってしまうだろう。こういう時に一番大事なのは自分の頭を守ることだ。そのために、倒れても怪我をしない場所まで、意識があるうちに向かった方がいいだろう。

僕はなぜか冴え切った思考でそう結論付けて、体が濡れた状態のまま風呂を出た。キッチンを抜けたその先にあるベッドまで、そのまま急いで向かっていった。

しかし、ここで僕の意識はプツリと途切れた。


次の瞬間、僕は顔面に何かがぶつかる感覚を覚えて目を覚ました。一瞬、車にでも跳ねられたのかと思った。
目を開けると床が見えた。少し顔を上げて前を見ると、1メートルくらい前方にベッドがある。僕はベッドに辿り着くことなく倒れてしまったようだ。
頭はまだ少しクラクラとしていて、鼻のあたりがじんじんと痛む。きっと床に倒れた時に鼻を打ってしまったのだろう。

「とりあえず、痛いのが鼻だけで良かった。鼻の痛みも大したことは無いし、大丈夫そうだ。ひとまず、ベッドで少し休むか。」

そう思って立ちあがろうとした時、なんとなく違和感を感じた。いつもとは何かが違うような、ぼんやりとした違和感だ。

僕はベッドの手前に何かがあるのを見つけた。目を凝らしてそれを見る。それが何か理解した僕は、また気を失いそうになった。

それは僕の前歯だった。

「え……?」

そう呟いて舌で前歯を触ってみると、前歯が無いことに気がついた。いや、前歯の土台しかないと言った方が正しいだろうか。そこにはかつて前歯だったものの名残りが残っているだけで、大部分は無くなっていた。

そしてその無くなった部分が、今まさに僕の目の前に転がっている。

この時、僕は思わず笑ってしまった。自分の前歯が吹っ飛んで目の前に転がっていることが、なぜか面白かったのだ。前歯が折れてしまうことがあったとしても、1メートル先まで吹っ飛ぶことなんてあるだろうか?その状況があまりにシュールで、僕は一人で笑ってしまった。今思えば、全裸で床に転がって笑う男の姿は、かなり狂気に満ちていたような気がする。

僕はとりあえず立ち上がって、そのままベッドに行って毛布にくるまった。そのまま休んでいるうちに、次第に思考がクリアになっていった。その頃には、僕はもう笑えなくなっていた。
冷静になるにつれて前歯の付け根がどんどん痛くなっていく。じんじんと脈打つように痛む。僕は床に転がった歯の破片を見た。その時、急に恐怖が込み上げてきた。

それはそうだ。前歯が吹っ飛んでいるのだ。冷静になって考えてみたら恐ろしいし、これからどうすれば良いのかも分からない。不安と恐怖に苛まれた僕は、思わず母に電話をしてしまった。

夜遅い時間だったのだが、母は電話に出てくれた。

「あ、もしもし、遅い時間にごめん。あのさ、驚かないで聞いてほしいんだけど、風呂上がりに倒れて、前歯が吹っ飛んじゃってさ……」

今思えば、突然息子からそんなことを言われる母が不憫でならない。ただでさえ夜中の電話なんて物騒なのに、「前歯が吹っ飛んじゃって」だなんて言われたら、卒倒してもおかしくない。

「なに?のぼせて倒れたってこと?今、歯無いの?」

「うん、そうみたい。怪我は無いんだけど、、前歯が……」

僕はそう言ったが、前歯が吹っ飛んでいるのは十分に「怪我」と言えるだろう。それでも僕がそう言ったのは、少しでも良いから母を安心させたかったからだ。

「あんたねぇ……。お酒でも飲んで風呂に入ったんじゃないの?」

さすが母だ、僕の行動を的確に見抜いている。

「いや、まあ、そうだね……。」

その後僕は今の症状などを母に伝えた。母はとりあえず明日の朝すぐに病院に行くように言ってくれた。ちょうど僕は明日の朝にかなり大事な打ち合わせがあったので、とりあえずその打ち合わせには出席してから病院に行くことに決めた。

その日はしばらく前歯の部分が痛かったのだが、なんとか痛み止めを飲んで堪えた。


次の日、取引先を打ち合わせをしているときにふと、相手が聞いてきた。

「そういえば、今日はマスクなんですね。どうかしましたか?」

当時はコロナなんて無かったから、マスクをつけるのは風邪をひいている時くらいだった。相手はただの雑談として僕のマスクに突っ込んだのだろうが、僕は前歯が無いことを見透かされたような気持ちになった。

僕は少し迷ったのだが、変に嘘をつくより正直に言ったほうが良いと思った。第一、僕は前歯が無いせいでいつも良い滑舌が悪かったから、バレるのは時間の問題だとも思った。

僕は少し遠慮がちに言った。

「実は、昨日転んで前歯が折れてしまいまして…」

そう言うと、取引先の男性社員はなぜかパッと笑顔になって言った。

「え、マジで? 前歯折れたんですか? ちょっと見せてくださいよ!」

彼の方が僕よりかなり年上だったのだが、それでもいきなり友達同士のような口調になったのには驚いた。それにしても、人の折れた前歯を見て何が楽しいのだろうか?
僕はその場の雰囲気に流されて、恥ずかしがりながらもマスクを取って前歯を失ったその口を見せた。

「うわぁ! マジじゃ無いですか? え、痛く無いんすか?」

彼は嬉々とした表情で質問をしてきた。

「ええ、まあ。結構痛いです。ご飯とか、食べれないですし」

「ええ、すご!」

そんな調子で相手はずいぶん盛り上がってしまった。僕はそれから、昨日からお粥しか食べてないとか、折れた歯を念のため牛乳につけて保管してあるとか、そんなことを話した。その話で打ち解けたせいか、その日の打ち合わせは驚くほどスムーズに進んだ。


それから何度か歯医者に通って、とりあえず僕の前歯は復活した。復活と言っても土台以外は全てプラスチックだ。僕は20代にして前歯がほとんど入れ歯のような状態になってしまった。

今は問題なく食事ができているし、日常生活で困ったことはない。むしろ、「風呂上がりに前歯が吹っ飛んだ」という話のネタができてありがたいくらいだ。と言っても、せいぜいこのネタは飲み会で小笑いが取れる程度で、むしろ心配される割合の方が多いくらいだ。このエッセイに書くのを最後に、僕の持ちネタからは外してしまった方が良いかもしれない。

この出来事から学べることは、『酒を飲んでから風呂に入るのは危険』という誰もが知っていそうな極めて薄っぺらい教訓である。

だがここに、その教訓を身をもって体現した「20代前歯なし男」が居るわけなので、読者諸君においては、是非ともこの教訓を胸に刻んでいただきたい。

飲酒後の入浴は、ダメ絶対。

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