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日常に潜む『虚無の時間』

僕は日常の中に必ず『虚無の時間』があると思っている。

『虚無の時間』なんて仰々しく感じられてしまうけど、もう少しわかりやすい言い方をすれば『無駄な時間』ということだ。でも、大袈裟な言い方の方が面白いし、ここでは『虚無の時間』と言っておこう。

僕たちが生ている24時間の中には必ず『虚無の時間』があって、その間僕たちは何もできない。何もせずに時間が過ぎていくのだから、もはやそれは死んでいるのと一緒だ。

では、僕たちは寝ている時も何もできないわけだし、睡眠時間も虚無の時間なのかと思われそうだが、そうではない。寝ている時間は自分の体と脳を休めるのに役立っているから全然無駄ではない。むしろ人生の中でかなり重要な時間だ。

では日常生活の中にある『虚無の時間』がどんな時かと言えば、例えばパソコンがデータを読む込むまでの数秒であったり、風呂に入ってシャワーを出してから水が温まるまでの数秒の無駄な時間だ。

「え、そんな小さなこと?」

と思われそうだが、『虚無の時間』はいつだって限りなく小さいものだ。
例えばあなたが寝転がってYouTubeで動画を見ている時間は人生において無駄かもしれないが、それでもあなたは「動画を見る」という行為をしている。だから、完全な虚無とは言えない。

例えばあなたが注文した料理を待っている時間は確かに無駄な気もするが、その間にスマートフォンを見たりすれば、それは虚無の時間とは言えない。その時にスマートフォンを開いて下世話な芸能ゴシップのニュースを見ているのなら、個人的にはものすごく無駄だと思うのだが、それでも「スマホを見る」と言う行為をしている。だから『虚無の時間』ではない。

『虚無の時間』とは、こういった自由のきかないごく短い時間のことだ。それは日常生活の中に静かに潜んでいて、その間、僕たちはいかなる行動もできなくなってしまう。まるで、時間という道の途中にポッカリと開いた落とし穴のようだ。

例えば先程『虚無の時間』の例として述べた「パソコンのデータが読み込まれるまでの間」について考えてみよう。

僕は趣味で動画を作っていて、その編集をする機会が度々ある。編集する前に、スマートフォンやSDカードから動画のデータをパソコンに読み込ませる必要があるのだが、この時、大体20秒くらいの時間がかかる。
この間、僕は何もできない。20秒程度では他の作業もできないし、休憩をするにも短すぎる。どうせ20秒待てば編集作業ができるのなら、その場で大人しく待っている方が良い。

そうして、僕はパソコンの前で20秒間何もせずに画面を見つめる。この時間こそ『虚無の時間』だ。何をするわけでもなく、何を考えるわけでもなく、ただ20秒間の静止を強制される。まるですごろくで「1回休み」のマスに泊まってしまったように、何もできない。

時々取り込むデータがかなり大きいことがあって、そういう時は読み込みに5分くらいかかったりする。それくらい時間があれば、わざわざパソコンの前でじっとしている必要もない。キッチンでコーヒーを淹れたり、トイレに行ったり、他の作業をしたり、なんだってできる。こういう時間は『虚無の時間』とは呼べない。

もう一つ例として挙げた「シャワーを出して温かくなるまでの間」について考えてみよう。
風呂に入ってシャワーの蛇口をひねると、最初に冷たい水が出るのはみなさんご存知のことだろう。もしかすると最新の風呂では最初からお湯が出るのかもしれないが、少なくとも我が家のシャワーは最初は冷たい水を放出し続ける。シャワーが自分の方を向いているのに気が付かずに蛇口を捻ってしまい、いきなり冷たい水がかかって「ひえっ!!」となってしまうのは、よくある話だろう。

そうならないように、風呂に入ってからの数秒はただシャワーから水が流れるのをぼーっと眺めることになる。この時間、僕たちは何もできない。スマートフォンを開いてくだらないゲームに興じることもできないし、何か別の考え事をするにも短すぎる。
ただシャワーから流れる水を見つめる、人生で最も意味のない時間だ。まさにこれは『虚無の時間』である。


どんなに無駄な時間でも、その間に何か別の行動をしたり、空想に耽ったりできるのであれば『虚無の時間』と呼ぶべきではないだろう。電車を待っている時間とか、トイレの個室が空くのを待つ時間とか、そういう時は今日の晩御飯の献立とか、週末にどこに行くかを考えていればいい。

だが、そんなことを考えられないほどの小さな無駄な時間、それこそが『虚無の時間』だ。まるで何も存在していないかのように、ぽっかりと空いた何もない虚無の空間。

そんなものが日常の中にあることを考えると少し怖くなってくる。

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