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良い授業の思い込み

英語科教育法Ⅲの第3回は、リーディングの模擬授業回。
第1回でリーディング指導についての基本を抑え、第2回では教材分析を進めた。
それを経ての第3回、講義で学んだことや教材分析の過程で見つけた色々な発見のうち、どこを削り、どこを残してくるかが個人的な注目ポイントの一つだった。

模擬授業担当の学生は、読解に入るまえの「内容スキーマの活性化」及び「語彙の確認」に焦点を当てた。
教科書の題材は、捨て犬として保護され、新たな飼い主に引き取られた後に警察犬になったトイプードルの話。
授業の冒頭では(人間によって辛い思いをさせられた)保護犬が人間と再び暮らすことへの困難を映し出したドキュメンタリー番組の一部を見せた。
観察者でありながら心は生徒役な私としては、「今日の授業気になる!」と心が動かされ、早く教科書の本文を読みたい気持ちになった。

授業はそこから新出単語の確認へ進む。「まぁ、英文を読む上で単語分かってるのは大事だよね」と生徒役としての私も納得する。

ただ、ここから川村少年の「早く読みたい」という気持ちは、かなり長い時間放置されることになる。先生は単語の意味のイメージを表現したイラスト付きのプリントを配り、生徒達はイラストをヒントにして単語の意味を考えていく。教室は単語の意味を予想する生徒達の声で盛り上がりを見せている。
(その頃川村は、一旦少年の心を忘れて、生徒役の学生達の会話を聞いていた。)

語彙を一通り確認し終わったところで授業は終盤に差し掛かる。教科書を開いて、本文を区切りながらリピートし、プリントに印刷されたいくつかの事実確認発問に答え、解説を添えたところで授業時間は50分を経過し、終了した。

この授業の中で一番ワクワクしたのはいつ?

模擬授業検討会では単語の意味を考える活動について「イラストがあって楽しかった」という声が複数聞かれるなど,単語学習についての振り返りが多かった。
(今期の目標として)私は検討会中出来るだけ聞くことに徹するようにしており,それなりに学生から思いが出たところで,どうしても気になっていたこと,「この授業の中で一番ワクワクしたのはいつ?」を尋ねてみた。

大半の学生が「単語の意味を考えるところ」と答えた。正直,意外だった。
私の目には,冒頭の保護犬の動画でグッと生徒を引き込んだものの,その後単語の確認の時間が長すぎて序盤の気持ちの盛り上がりを殺してしまった授業のように映っていた。
しかし生徒役の学生たちからすると(もちろん保護犬の動画も興味は引かれたけど)シンプルに単語の意味を考える活動が楽しく,検討会中に「あ,そう言えば動画見たね」と思い出す学生もいるぐらいだった。

教師教育者の思い込み

この授業に対して「最初の動画がその後の授業展開に活きていない」とコメントするのは簡単だし,恐らくそれは事実で,単語に時間がかかりすぎたという点で授業者役の学生も不本意だったかもしれない。
ただ,私がここで注目しなければいけないのは教師教育者である私自身が暗黙のうちに持っている授業展開についての「思い込み」だ。私は動画で興味を惹きつけられた時点で,てっきりその後英文の読解に進んで,保護犬のその後について考えさせられるようなタスクが待っているのだとばかり思いながら授業を観察していた。
私が想像していた展開にならなかったから、「あれれ?」と違和感を抱いたわけだ。その時点で私の思考や私の授業を見る目は,「今ここ」で起こっている学習者の学びや授業者の思考から離れていたと言える。「この活動をいつ切り上げて英文読解に入るのだろう?」などと思いながら見ていたら,その活動自体に取り組んでいる生徒たちの想いや思考には寄り添いようもない。

授業を知識・経験(だけ)で評価しないこと

教師教育者は(少なくとも教員志望の学生より)授業についての経験も知識も豊富に持っている(はずであり、べきである)。しかし,その場で行われた一度きりの授業を自分がこれまで培ってきた「良い授業」の枠組みに当てはめて評価してしまえば,それは実際に授業を受けた生徒たちの感覚とは離れたものになってしまうかもしれない。もちろん,授業の構造を見る視点を置くことも私の仕事・私の専門性の一つだと言えるし、授業を良くするために授業の構成・展開を精査することは言うまでもなく重要だ。
だが,それ「だけ」になってしまうと,「授業とは生徒の存在抜きにして客観的指標によって評価可能である」という暗黙の了解を学生たちに伝えることになる。それは私が最も避けたいと思っている教師教育のあり方だ。
少しでも「上手な」授業を少しでも「早く」できるようになりたければ,私に徹底的にアドバイスを仰いで,私が「こうした方が良い」と言うことをどんどん取り入れればいいかもしれない。(そもそも早く上達するようなアドバイスを出来るのかという問題もあるが)
だが,教師教育者の仕事は教師をスタート地点に立たせるだけで終わりではなく,その後の教師としての成長にも大きな責任を負うものだ。教師として働き始めてからは,生徒らの様子から(時に生徒らとともに)日々の授業を振り返って,自分の授業観・生徒観を磨きながら良い授業とは何かを自分で考えなくてはいけない。

教師も教師教育者も、リフレクションを予定調和的なもの、あるいは単なるPDCA的なものとして陳腐化させないために、一旦自分の中の思い込みを捨て、その授業の中で起きたことを地道に捉えることで本質に辿り着くことが求められる。


「教員採用試験の合格者を・・・」という「使命」のようなものも日々のしかかる中で,気を抜くとそういうことを疎かにしてしまいそうな私である。

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