『なんで英語,勉強すんの?』
朝の小一時間でサラッと読んでとりあえず学級文庫に置くことを決定。
タイトルにある問いに直接的に理屈で答えるというよりは,「結局『なんで英語,勉強すんの?』ってことが知りたいわけじゃなくて,『英語,よく分からないし大変だから勉強したくない』って言いたいんでしょ」という雰囲気で,どうしたら楽しく英語が勉強できる(可能性がある)かを筆者の学生時代のエピソードや若者に流行りのアーティストなんかにも触れながら柔らかく論じている。(これが若者への擦り寄りに見えてしまうと気持ちが冷めてしまいそうだが,実際の中学生はどう感じるのだろう)
本書は英語学習者,特に中学生を主な対象として書かれた本である。当然書きぶりは平易で読みやすい(若干,中学生には理屈っぽ過ぎるのでは?と感じる部分もないではないが)。
一方,内容には手加減がない。特に4章「4技能をどう勉強したらいいの?」を中心に,英語教員養成課程の学生や若い英語教員に読まれたい一冊であると思う。
(例のごとく「どの立場で言っとんねん。お前,2年目じゃろ」案件だが,同僚や大学の後輩から読んでいるとの報告が増えてきたこともあり,こういう書き方も許してほしい)
英語を勉強する目的
本書では英語を勉強する目的を「日本語とは違う文化を理解しコミュニケーションに使うため,つまり異文化コミュニケーション」(p. xiii, 強調引用者)としている。
第1章では「コミュニケーションって何?」という問いに,その難しさの側面に焦点を当てて答えている。外国語コミュニケーションを夢溢れる花畑かのように見せることもなければ,グローバル化により誰しもにとって必要になるなどという過言もない。
「なんか大変そうだけど,英語を話せる人はみんな頑張って勉強してきたんだ。自分も頑張ってみようかな」という思いに導き得るような暖かい内容だ。
異文化コミュニケーションについては筆者の以下の著書も重要文献だ。
英語の勉強方法
2章「英語は難しすぎるよ!どうしたら好きになれる?」,3章「英語は暗記科目?」,4章「4技能をどう勉強したらいいの?」の3つの章に渡って,英語学習の方法について論じられている。
第二言語習得的な観点というよりも,一人一人の学習者が楽しく,自分らしく英語を学習するにはという視点で論じられており中学生に読んでもらうことはもちろん,英語の授業者としても自分の授業の中でそういった時間を少しでも作れているか,と振り返る機会をもらえるだろう。
「どうしたら英語を好きになれるのだろう」という問いに対して,筆者は「本音を言えば,無理して好きにならなくてもいい」(p. 27, 強調引用者)とするが,なかなか英語の授業者としてはこの「本音」は言いづらいかもしれない。
ディズニー,ハリー・ポッター,アベンジャーズですら全然好きじゃない人はいる(私である)のだから,誰も彼もに英語を好きになってもらうことは不可能に近いだろう。ただ,英語を好きではない生徒が週に4時間も5時間も苦痛を味わう時間にはしたくない。
仮に英語が出来ればハッピーになれるとしても,その「出来れば」のハードルは正直かなり高い。出来ずにもがく過程のアンハッピーの方が遥かに大きいのではないか。
日本の大人の中はやたらと「英語は学校で習っても出来るようにならなかった」と言う印象が強い(私の父親や親戚である)。
彼らの中に元素周期表や徳川幕府の将軍とその政策を覚えている者は何人いるだろうか。覚えていないとして,それを少しでもコンプレックスとして抱えている者はいるだろうか。
英語だけは(別に自分は使いもしないのに)話せるようにならなかったことへのコンプレックスをやたらと抱えている。
それは,お花畑のような英語コミュニケーションへの幻想を抱かされた経験からくるのかもしれない。英語を使える人がそうでない人に対して不安・劣等感を煽るような言動を繰り返してきたからかもしれない。
これは英語を習得する過程での「努力」や「苦労」を否定するものでは決してない。外国語習得に「努力」も「苦労」もない方がおかしな話だ。
ここで言っているのは,英語が出来ないという自意識から来るルサンチマンの問題だ。
英語(コミュニケーション)を好きになることを強いる英語教育は,全体で見たとき幸福より多くの不幸を生み出している可能性がある。
筆者が中学生への救いとして述べたこの「本音」は,仮に口には出されないとしても,英語教員の心の中に在り続けてほしいと思う。
7技能
日本では「4技能5領域」という言葉がようやく浸透してきた感があるが,そんな日本の学習指導要領が依拠しているCEFRの方では2018年の改定で「7技能」に増えている。
日本の「5領域」になくてCEFRの「7技能」にあるのは,「書くことのやりとり」と「仲介」である。
「仲介」(翻訳や通訳など)が加わったことの意義は,こちらの記事で触れている拙発表を基にした論文に書いた。そういえば,そろそろ査読結果が返ってくる頃だ。リジェクトされた際にはここに記事として挙げようか。
これまでにも当然「話すこと」だけが「やりとり」と「発表」に分けられて,「書くこと」は分けられていないのかという批判があった。
そして本書も真正面から「書くこと」の「やりとり」という側面を扱っている(pp. 50-53)。これはその後の第5章「デジタル時代のことば」に繋がる。ここから"Language in Social Media"などの分野に興味を持った学生・教員が『デジタルで変わる子どもたち ――学習・言語能力の現在と未来』(バトラー後藤, 2021)も手に取るという流れもあり得るだろう。
また,「話すこと」の活動として,「スピーチ」や「プレゼンテーション」がある種「最難関」のように思われていることはないだろうか。逆に「話すこと(やりとり)」については,友達同士での「おしゃべり」を毎授業の冒頭で行う先生もいるように,比較的軽いものと思われている気がする。(あくまで印象論だが)
そういった現状に対して筆者の主張は端的で鋭い。
「話すことのやりとり」は相手がいるので,自分でコントロールできる「スピーチ」「発表」などから始めるのです。(p. 67)
私も授業の中では「やりとり」よりも「発表」に近いスピーキングをすることが多い。学校・学年・学級の雰囲気,そして自分の英語教師としてのキャラクターも相まって,どうも「話すことのやりとり」が上手くいかない。
生徒にとっても普段は母語でくだらないことをラフに喋っている相手と,前日の放課後の過ごし方について,大きな声で,相手の目を見て,リアクションをしながら,不自由な外国語で話すという行為への違和感は結構大きいのではないだろうか。
(大学在学中に観察させていただいた附属中の先生方の授業では,そういう違和感があまり感じられなかった。結局のところ授業者としての腕の問題か,とも思ったりしている。)
カタカナ語の存在
全体を通して平易な文章で信頼の置けることが書かれているが,ある程度議論の余地も残されているところがまた良い。
例えば,英語と日本語の発音の違いに関して,「カタカナ語は英語を分かりにくくしている迷惑な存在です」(p. 60)とある。著者には何ら政治的な意図はないにしても,カタカナを「迷惑な存在」としてしまうことは少々乱暴にも聞こえる。確かに英語習得にあたってカタカナ語は特に発音の面,そして時には意味・語用の面において厄介ではある。しかし,日本語を母語として持つ我々はそれを「迷惑」だとしてただ避けるしかないのか,それとも外国語学習にむしろ効果的に活かしたり,ことばについての思考を深めたりすることもできるものとして捉えるのかは,学習者・授業者の態度として小さくない差を生みそうだ。
将来何をするか分からないから英語を
第5章の締めくくりは以下のようになっている。
将来,何をすることになるのか分からないからこそ,世界のどこで暮らすことになるのか分からないからこそ,中学校英語だけは捨てないで,土台だけは作っておいていただきたいと願っています。(p. 84)
何が起こるか分からないから英語をやっておこう,という考え方について,私は割と否定的だった。「何が起こるか分からない」のに,なぜ英語が大事だと言えてしまうのだろうという疑念だ。
その考え自体は今もあまり変わってはいないが,「中学校の英語は」という限定がつくとかなり受け容れられる気がする。
基礎的な英語の文法・語彙・音声・コミュニケーションスタイル等に触れ,その後の外国語学習の基盤を形成するという機能を中学英語に期待するのであれば,私は筆者の考えに賛成である。
そこには,上述したような「ハッピー以上のアンハッピー」を生み出しているのは大学入試を視野に入れた高校の英語教育が主なのではないかという私の中の仮説がある。
その仮説はどの程度正しいのか,そして高校英語はどうあるべきかといったあたりは,英語教育・学校教育の複雑な全体像を見つつ,より良い方向に向かうべくアプローチしていく必要がある。
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