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共通テスト(英語・リーディング)について思うこと

テストの概要

今年の共通テストは以下の6つの大問で構成された。
第1問 … 広告
第2問 … A. ビラ? B. 広告
第3問 … A. ブログ B. 雑誌
第4問 … ブログ
第5問 … 論説文とそれをまとめたノート
第6問 … A. 論説文とノート B. 記事とそこから作ったプレゼンの草稿

昨年と同じく発音や文法・語法などの知識を直接的に問う問題はなく,様々な媒体によって提示された文字情報を読み取ることが求められるテストだった。

テストの狙い

上のようなテストの構成は,「外国語を使って何ができるようになるか」という学習指導要領に示された目標に沿ったものと理解できる。
英語で多くの情報をスピーディーに処理できる者ほど高得点を取れるようなテストだと言える。

第5問と第6問以外では,架空の施設の広告や架空の個人の書いたブログを素材として扱ったり,リアルなものでもブラジルでデザートを作るのに用いられるフルーツが題材とされ,「問題に関する背景知識が一律ゼロ」という状況が(恐らく意図的に)生み出されている。
これはテストの公平性を考えれば悪いことではないし,逆に第5問,第6問は,センター試験の第4問や第6問に通ずるような,知識が英語の理解を助けるタイプの問題になっており,バランスとしては悪くないように思える。

素材と問題の質

第1問から第4問のために創作されたブログ記事・広告などのリーディング素材の質と各設問の問い方には改善の余地が大いにある。
(センター試験と比較するわけではなく,単に共通テストそれ自身の課題として指摘したい)

それらの素材には文字情報以外にもイラストや写真等のビジュアル情報が置かれているのだが,文字もイラスト・写真も置かれ方は雑多で,構造化されていない。雑多な情報の中から設問によって指定された情報を素早く探し出す技術が求められている。

そこでは,必要な情報を読み取るために構造的に読むという必要性が極めて薄い。もっと言えば,(素早く)的確に個別の情報を読み取りたければ,与えられた情報の全体を構造化して読むべきポイントを絞るということを我々は日常的にする(目次を読んだり,アブストを読んだり,パラグラフリーディングをしたり)と思うのだが,そういうことがまるで促されないし,そういうことをしようとする受験生が損をするとまで言える。

第2問Aを例にとる。図書館の情報が載ったビラ(?)には,
Library Card
Borrowing Books
Using Computers
Library Orientations
Comments from Past Students

という5つの見出しが用意されている。
問1は「図書館でできること」を5つの選択肢の中から2つ選ぶというものだ。
正解は,"use your ID to make photocopies"と"use your laptop in the Study Area"となる。
(https://www.toshin.com/kyotsutest/)
この正解にたどり着くためには,Library Card, Borrowing Books,Using Computers, Library Orientations, Comments from Past Studentsの全体に満遍なく目を通す必要がある。(上から順に読んでいくとしたらLibrary Card, Borrowing Books,Using Computersの3つだけで答えは出揃うが)

誰があのビラを見て「あ,ここではIDカードを使ってコピーが取れて,それとノートパソコンは学習スペースで使えるんだな」などと頓珍漢な理解をするのだろうか。いや,理解していることは間違っていないのだが,そんな読み方をするのは極めて不自然だろう。
「外国語を使って何ができるようになるか」を突き詰めたようなテストである割に結局のところこの問題は単なるTrue/False問題に過ぎない。しかも,文章を構造的に読んで狙いを定めて情報を取りに行ったわけではなく,見出しからなんとなく読んだり,「卒業生からのコメント」という何が書いてあるか全く不明の箇所を上からローラー式に読んだりすることが求められる。この問題に正解できたとして,それは外国語を使って何ができたと言えるのだろう。

第2問BのDavidが各国のペット事情について調べたという学校新聞の記事に関する問題には異なる観点からの不満が残る。
この学校新聞では筆者(David)の意見が明確になっていない。高校生が教科書等で読む一般的な論説文であれば,各国のペット事情について客観的な調査結果をパラグラフごとにまとめ,(最初と)最後には筆者自身の意見が述べられていることが多いだろう。
しかしこの問題は学校新聞の記事という設定のせいか,全体的に些か稚拙な構成・文章になっており,どこが筆者(David)の意見なのかはっきりしない。意見らしきものは特に見当たらないようにさえ思える。
そのような中で問4は次のような問題になっている。

Which best summarizes David's opinions about having pets in Japan?
① It is not troublesome to keep pets.
② People might stop keeping pets.
③ Pet owners have more family members.
④ Some people are happy to keep pets inside their homes.

第2問 B 問4

正解は,④の"Some people are happy to keep pets inside their homes."である。(https://www.toshin.com/kyotsutest/)
この答えの根拠となるのは学校新聞の中に含まれる次の一文。

Still, I know people here who are content living in small flats with pets.

Davidの学校新聞の記事より

ここで,この文を含む,本記事のまとめとして書かれたパラグラフをそのまま引用する。

These results suggest that keeping pets is a good thing. On the other hand, since coming to Japan, I have seen other problems such as space, time, and cost. Still, I know people here who are content living in small flats with pets. Recently, I heard that little pigs are becoming popular as pets in Japan. Some people take their pig(s) for a walk, which must be fun, but I wonder how easy it is to keep pigs inside homes.

Davidの学校新聞の記事より(強調引用者)

強調した部分は"People might stop keeping pets."とサマライズされ得ないだろうか。
確かに「そこまでは言ってない」と言われればそうだし,逆に"Some people are happy to keep pets inside their homes."についてはそれとほぼ同じ意味のことを言ってはいる。
しかし,この新聞記事を読んでDavidの意見が"Some people are happy to keep pets inside their homes."にまとめられるというのは,少なくとも私としては釈然としないのだが,どうだろうか。

これはもはや邪推の域だが,これが(学校)新聞である以上,最低限のメディアリテラシーを持って読み取るとすれば,Davidの本当の意見は「(時間に追われ,高い家賃を安い賃金から払う)日本人はますますペットを飼わなくなるかもしれない」というものだという可能性もある。ただ,日本の学校に留学に来ておいてその学校の新聞でそんなことを直接的には書きづらいし,イギリスという国で育ったDavidは遠回しに批判することを周囲の大人から学んできた結果,このような文章になった可能性だってあるわけだ。

英語教育とメディアリテラシーの問題については以下の本を読み進めながら実践の在り方を考えているところだが,上の記事から"Some people are happy to keep pets inside their homes."を筆者(David)の主張だとする授業はまず私ならやらないだろう。

大学入学共通テストとしての機能

共通テストでは(センター試験の第1問や第2問のような)発音・文法・語法の知識を問う問題がなくなり,全てが英語を読み取る(情報を処理する)問題になった。
大学での学びにおいて,(多様な媒体の英語を読み取る力が不要とは言わないが)プレゼンテーションやエッセイライティングなどのタスクを考えれば,文法を使いこなす能力は当然求められる。センター試験の問題がベストだったとは言わないが,大学での英語学習・英語使用を鑑みて,文法知識(を問う問題)が不必要とは私には到底思えない。
だからこそ英作文や単語・語法問題等がある英検などの外部試験の活用を目指したのかもしれないが,大学入試としての機能という面から見ると,その目的で作られていないテストを複数並べるなどあり得ない。

ただし,文法問題を入れるとして,どのような形が理想的なのかは残念ながら私にはまだ明言できない。
絶賛勉強中である。

大学入学試験は高校卒業試験ではない

共通テストで文法問題がなくなり,雑誌・広告・新聞・ネット記事など様々な種類の英文が扱われるようになったことは,学習指導要領の改訂と切り離せない。高等学校学習指導要領で示されている方針を分かりやすく大学入学共通テストに反映させていると言えるだろう。
外国語学習指導要領の「(3)言語活動及び言語の働きに関する事項 ①言語活動に関する事項」を見ると,「日常的な話題」についての活動として,英語コミュニケーションIでは「電子メール」「パンフレット」,英語コミュニケーションIIでは「新聞記事」「広告」,英語コミュニケーションIIIでは「新聞記事」「物語」が挙げられている。
これらの多くが共通テストで題材として課されている。
そして上述の通り共通テストは「外国語を使って何ができるようになるか」と一貫して問うているテストだ。

高等学校学習指導要領で示されている方針を大学入学共通テストに反映させるというのは,高校生が大学生になる「一般的な」進路の在り方を考えれば自然と思えるかもしれない。
しかし,大学入試は高校生にのみ開かれているものではない(社会人も一般受験で大学を受けることは可能である)。同時に,大学入試は全ての高校生に課されるものでもない(高校では高校生としての各教科の学びを全うして,大学入試は受けないという生徒も存在するはずだ)。

にも関わらず,大学入学共通テストが実質的に高校3年間の学びの「集大成」になることが自明視されていることに問題はないのだろうか。

また,大学入試を高校と繋げるのであれば,やるべきことは学習指導要領との接続(だけ)ではなく実際に高校で行われる授業との接続(も)である。
高校教員側も今の高校生に求められる力を理解して,教師自身も足りない力があるなら身につけながら,授業をアップデートしていく必要がもちろんある。しかし,それには当然それなりの時間がかかるし,国公立二次試験や私立大学の個別入試の存在もあり,共通テストにだけフォーカスすることも難しい。
そのような状況で共通テストだけがそれを待たずして一方的に走り出し,勝手な方向(英語力ではなくワーキングメモリーや情報処理能力を問うような方向)に突き進んでいることには学校英語教育全体で警鐘を鳴らすべきだと思う。
入試に振り回されながら授業をすること自体が苦痛ではあるが,授業を振り回す力を共通テストだけがやたら大きく持ってしまうことはより根深い問題と言える。共通テストが学校英語教育の在り方を一方的に捻じ曲げようとする一種のプロパガンダとしても働きかねない。

(ちょうど今日,共通テストの影響を大いに受けたであろうベネッセの学力推移調査を実施し,実際の授業で我々英語教員が必死に育てている英語力との理不尽な乖離に憤りを感じているところだ)

まとめ

今回は全体的に共通テストに対して否定的な文章になったが,雑誌や広告など様々な媒体を英語の授業で扱うことには私は心から賛成している。問題はその質だが,それも英語教育界全体で底上げされていくのを少し待ってもらいたいし,何より共通テストの素材の質がまだまだ低い。

この記事には感情的になり過ぎている部分も,的を外した批判をしている部分もあるかもしれない。自分の本当の「意見」をどれだけ適切に表現できただろうか。
この記事に限らず私のnoteは基本的に全て英語教育について何か考えるきっかけ程度に読んでもらえればという思いで書いているし,それ以上の期待も特にない。

万が一この文章が国語の入試や日本語能力試験など人様の人生を左右し得る試験で使われてしまったらたまったものではない。そんなつもりで莫大な時間や労力をかけて,色々な人に文章をチェックしてもらって書いているわけではない。



そんなことが起きてしまった日には,全ての受験生に謝罪させてほしい。



曖昧な学校新聞の記事を入試問題として提供してしまったDavidと一緒に。

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