社会科の研究会にお邪魔しました。

東洋大学にて「中等社会科教育学会授業実践研究部会第26回例会」に参加。静岡での中高教員時代の同僚との教科横断型授業の実践をまとめた論文(渡邊和彦・川村拓也(2023)「世界史と英語における教科横断型授業実践ー歴史教育と外国語教育に跨る「翻訳」の意義ー」『中等社会科教育研究』41. 13-23)についての発表。

筑波大学の先生方や院生・修了生を中心に,社会科教育を専門とされる方々ばかり集まる中,完全に門外漢である私も実践論文の著者の一人としてお招きいただいた。

実践そのものについては学会誌に掲載されているものを読んでいただくとして,大学院生や現場の先生方も多くいる(なんなら第一著者の渡邊も高校教員である)ということで,論文には書けなかった実践研究を進める上での「リアル」みたいな部分を多めに語らせていただいた。今回の発表の機会を得たことで,改めて同僚との実践研究の過程での対話を色々と思い出し,省察の機会を得た。ありがたや。

中でも印象深かったのは,実践を進める上での「壁」の一つとして言及した,社会科と英語科の実践研究の文化の違い。社会科は「望ましい社会科授業の姿」なるものをイントロ(「問題の所在」)で記述することが求められ,実践の背景もそれと照らし合わせて理論的に語られる(らしい)。一方で英語教育の実践研究と言えば,少なくとも私が触れてきた範囲では,(目の前の生徒のリアルに基づいた)教師個人の問題意識「求める生徒の姿」が,ある程度主観的に語られる。この主観が入り込むことで学術研究よりも質の低いものと見做されることもあるが,近頃は学術研究とは棲み分けた独自の意義を実践研究に見出し,むしろ教師の主観を存分に語ることが推奨されているとまで言える。

2021年の夏に学会発表をした際にこの文化の違いから二人の研究発表のイメージに大きなズレが生まれたことが思い出された。そもそも渡邊が世界史の授業を担当していた学年の生徒たちの姿を見て問題意識を抱いたことが本実践の最も大きなきっかけであったにも関わらず,渡邊がそのことを学会発表の中で十分に語ろうとしなかったため,この研究の意義から問い直すような議論をした記憶がある。

私としては(私の知る限りの)英語教育における実践研究の文化が社会科の先生や院生の皆さんにどう受け取られるのか少し不安な部分もあったが,発表中のリアクションや発表後の雑談を含めて,この件について興味を示してくださる方が複数おり,胸を撫で下ろした。またそれ以上に,大学院生や現職の先生方で教科横断型授業の実践研究に関心のある方々には,先行実践を読む過程ではなかなか気づけないような示唆を投げることができたのではないかと,手前味噌ながら思っている。もしそうであれば,私のような名も無き門外漢を例会に呼んでくださった方々への恩返しが少しはできただろうか。

帰りの新幹線でこうして振り返りながら思うのは,(渡邊の言葉を借りれば)英語教育より遥かに「規範的」で「原理的」である社会科教育において,教師を目指す大学院生らは現場の先生の発表・報告から「学ばせていただく」姿勢になりやすいだろうなということ。実際,我々の発表に対しても大学院生の皆さんが何度も頷きつつ沢山メモを取りながら聞いてくれたおかげでこちらは大変話しやすかったのだが,もっとビシバシ批判的な意見を投げてくれて良いんだよという思いもある。

なかなか英語科以外の教科の学会・研究会に参加する機会はないので、今回は本当に新鮮で面白い議論の機会を与えていただき、本当に感謝しかない。

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