『熟達論』が代弁してくれた“言語化のジレンマ”
僕は為末大さんの発信が好きで、本も昔に何冊か読んだことがあり、今回新しい本を出版されたので、読まない理由はないなということで手に取ってみた。
本書は、茶道や武道などの修行における段階を示した「守破離」を現代版に書き換え、「遊」「型」「観」「心」「空」という5つのフェーズで捉え直そうとしたものである。これにより、どんな年齢でどんな状況に置かれている人であっても、この理論に当てはめて考えアプローチすることで、いつまでも学び成長できることが主張されている。
本書を読んで、僕はなにか救われた気持ちになった。
アスリートは孤独だ。そう言われる所以に、「凡人には理解ができない境地」というのがある。もちろん、これはアスリートに限ったことではないが、アスリートは特に、感覚やらメンタルやら、独特の世界の中で自分や周りと戦っている。
僕が19年以上自分の身体を通してサッカーと向き合ってきたなかで、感覚では掴んでいるものの言葉では人に伝えられないことが非常にたくさんあった。それでもどかしい気持ちになったことは幾度となくある。言葉にしないと誰にも理解してもらえないからだ。
カオスな世界で心身を削るアスリートはとにかく言葉を求めている。人から理解してもらいたいという欲求を満たすこともそうだが、言葉の力を借りて、自分が掴んだ感覚を留めておきたいのだ。言語化することで、スランプや不調に陥ったときに、感覚を取り戻せるかもしれないという期待を言葉に込めて。
カオスな戦場で安定したパフォーマンスを発揮しなければ生き残れない世界で、言葉というのがアスリートにとって一つの頼みの綱である。
だから、サッカーノートを必要とする人もいれば、他のアスリートの発信で自分の感覚や状況を代わりに言語化してくれているものを探しにいく人もいる。
しかし現実はそううまくいかない。
自分の感覚はそう簡単に言語化できない。なぜなら言葉というのはそれほど万能ではないからだ。言語化した時点でその留めておきたい記憶やメモリは劣化したものになってしまう。
さらに問題なのは、言語化ができたとしても、それがパフォーマンスの維持を助けてくれないことが多々あることだ。
僕もここに非常に陥ったことがかなりあった。言語化してしまうことによって“できていたこと”が“できなくなる”。言語化が間違っていたことも疑ったが、どうやらそういうことではない。そもそも言葉がそこまで万能ではないのだ。
カオスな戦場で再現性を求め、言葉に期待すると、カオスにさらに飲み込まれることがよくあるのだ。
だからアスリートは、何度も反復練習を行うことで、身体の神経なり、筋肉なりのメモリに記憶を保存していく。時には他者(専属コーチなど)の力も借りる。
普通に過ごしていたらこう言った葛藤にぶつかることはほとんどない。が故に、理解されにくく、苦しい。良いアスリートであればあるほど、自分が特殊であることを認識しているので、他者から理解して貰おうとはしないし、理解できるとも思っていない。
そんなアスリートの孤独な葛藤を代わりに言語化し、世の中の人に伝わるように描写してくれたのが本書だ。うまく言語化ができずに悩むアスリートにとっては、読むことで頭をクリアにしてくれる救済本のような存在になることだろう。特に最終章「空」では、このあたりのことが理論的に非常にわかりやすい表現で描写されていた。
だから、僕はなぜか理解してもらえたような気がして、救われたかのような気分になったのかもしれない。
「空」フェーズの描写の美しさも、言葉を定義するときの秀逸さも、要所要所で出てくる比喩による配慮も、書きたいことは山ほどあったのだが、僕の境遇に一番近く、一番響いたのが「言語化のジレンマによる葛藤」であった。
僕はアスリートだから、この本の文章に自分を重ねながら、アスリートとして読んだが、ここにある内容や理論は、成長を試みる全ての人の助けになるだろう。
アスリートを理解しようとする者はもちろん、成長が止まったと感じる者、誰かの成長に伴奏する者など、たくさんの人にお勧めできる一冊だ。
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