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「闇」の力を借りること。活かすために、切る。

※ちゃんと書こうとしたら書けなくなるから、感じるままに簡単に。

京都のとある芸術展に行った。そしたら、闇に出会った。

闇というか、正確には星空をテーマにした真っ暗な空間なのだけど、その中でじっと過ごしていて、今の自分に足りないのは「『闇』の力を借りること」なのだと気づいた。

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僕は人に対して怒ることが少ない。2,3年に1回あるかないかだ。時にそれは「高浜君の優しさの表れだよね」とかって受け取られることもあるけれど、そんなことはない。シンプルに、「人のことを諦めてる」のだった。

「人の可能性を信じ続ける」などと自分の信念として掲げつつ、実際のところは、例えば頭の堅い先輩に対して、「あぁ、この人には所詮、僕の伝えたいことはわからないのだな」などと勝手に結論付けていた。

ツイッターの世界で、嫌なことばかり投稿するアカウントをミュートする風潮があるように、愚痴を話し続ける後輩や友人たちと一緒にご飯を食べている時、僕は今後二度とその人たちと関わらないという選択もできる。

あるいは、「そうだよね。うんうん。」とひたすらに同情して、傾聴し続けることもできる。そして僕は実際、そうすることが多い。「話聞いてくれてよかったです」なんて言われると、ほどほどの自己効力感もある。

自分の時間は有限で、関われる人の数は限られているのだから、前者を選択するのも時には大事だと思う。目の前の人が「今はただ、話を聞いてほしい」というニーズが強いのなら、後者の選択も時には大事だと思う。

その上で、僕にとってこれから挑戦したいのは、第三の道。
今、その場で、「怒る」こと。

それは、今、目の前にいる人の可能性を信じるからこそ、「お前、そんな態度で本当に良いのかよ。なんで自分でできないと思ってるんだよ。」と思いっきり、本音で怒ること。

正しいところに導くのが「叱る」ことなら、この場では何が正しいかなんてわからないから、「叱る」わけでもない。ただただ、目の前の人に対して、「君にはもっと力があるのに、何でそれを信じないんだ」という、自分の中に生まれて来る怒りを、精一杯の期待と敬意をこめて、ぶつけること。

そうすると、泣く人もいるだろうし、傷つく人もいるのだと思う。

それを恐れて、甘ったれてきたのが今までの自分だったし、だからこそ、自分が起こせるインパクトも中途半端なままだった。

松下幸之助は人を活かす天才であり、それはつまり、人を叱る天才でもあった。3時間ぶっ続けで叱り、時に相手を気絶させるほどの怒号を飛ばすほどだったが、彼に叱られた多くの社員たちは彼に叱られたことに感謝し、時には誇らしく語り継ぐほどだった。「こんなにも自分の可能性を信じてくれているからこそ、これほどに本気で叱ってくれたのだ」と。

僕も、そうありたい。

自分には何の秀でた天賦の才もないけれど、強いてあげるなら、「あいつは、人を活かす天才だった」と言われるように、才を磨きたい。

天才なんて称号は別にいらないけれど、とにかく、自分の周りにいてくれる人が、「私には、力がある。」と、「私には、自分で道を切り拓くことができるのだ」と、そんな自信と英気をまとって生きて行ってほしい。

目の前の人が、本当の意味で活かされるために、中途半端に甘えた在り方を、目いっぱい、切る。負のエネルギーとしての闇の力を借りることで、目いっぱい、怒る。問いただす。それが「活人剣(人を活かす剣)」なのかもしれない。

「人は誰しも、天与の役割があり、そしてまた、無限の力を秘めている」

そんな信念を、常に忘れず、常に体現するように、生きていきたい。

良い人ぶるな。ちゃんと、怒れ。


※「闇」という表現は、あの場でインスピレーションとしてもらっただけで、本来的な意味からするとあまり正しい表現ではないかもしれない。闇が邪悪なものであるという認識自体が誤ってると思う。今後深めたい。








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