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【連載小説】稟議は匝る 16-1 札幌すすきの 2007年3月16日 (ろここ、大熊の話)

その日、山本は大熊に誘われて、すすきのへと繰り出していた。

普段よく連れ立っていく大衆酒場に足を向けようとする山本を制し、大熊は口数少なに山本を先導していった。


どれほど階段を上り下りしたか分からない。通りからはビル自体が全く見えない場所であろう、階段や廊下に荷物が散乱している奥の奥に、その店はあった。


店の前は、今まで通ってきた路地裏の雑然とした雰囲気はみじんもない。

ここだけ急に別世界のようだ。山本がきつねにつままれたような心地で目をやった店の入り口の大きな扉には、木目の美しいドアノブがついていて、「Rococo」と彫られた小さなプレートが貼ってある。


「ろここ」と読むのだろうか、確か、美術史で習った気がするが、山本には何なのかも思い出せない。


そんな、決してふらり客が来る訳もなく、存在を知っていても一見客には入りにくい特別な雰囲気を醸し出している扉を、大熊は全く気にも留めずにぐいっと開けて、ずんずんと中へ入っていく。


山本も続いて中に足を踏み入れると、中からは、音楽が聴こえてきた。防音扉だったらしい。弦楽器の澄んだ音が聞こえる。奥へ進んでいくと、数人の演者がいた。生演奏だ。ピアノとチェロとヴァイオリンがふたり、あと山本が名前を思い出せない楽器の奏者を含めて5名だ。


客席は、4~5名用のテーブルが5~6台。だが、山本たちの他に客はいない。テーブルはどこに座ればよいかわからず、山本が戸惑っていると、奥からスタッフが姿を現した。


「いらっしゃいませ。大熊さんご無沙汰しております」


黒のパンツに、きりっとした白のブラウスを着た女性スタッフは、山本たちを見て目を伏せた。

その対応に山本は違和感を覚える。


「こちらこそ、ご無沙汰してます」


大熊は常連のように、軽く会釈をして先へ進んでいく。慌ててスタッフが大熊の前に進み、窓際の2人席へ案内した。窓からはビル街の夜景が見えた。


スタッフは、まず大熊の椅子を引いて席に座らせる。山本が勝手に座ると、


「失礼しました。メニューをお持ちするのでしばらくお待ちください」

と言って、厨房の方へ去っていった。


演奏に気遣い、山本は大熊に顔を寄せ小声で話す。


「大熊、よく、こんなお洒落な店を知ってるんだな。居酒屋でしか飲んだことがない俺は、めっちゃ緊張するよ」


慣れない場所に早めに白旗を上げる。

普段なら、愛想よく話に乗ってくる大熊だが、今日は雰囲気がまるで違った。静かにほほ笑んで、


「そうですね・・・・・・」

と演奏の方に目をやった。


つられて山本がそちらを見やると、奏者たちは音合わせや練習をしているようだった。

それほど広くない店の、一角に周囲より30cmほど高いスペースがあり、その場所で、5人は演奏している。それほど窮屈そうではない。生演奏がウリのレストランなのだろうか。山本が周囲を見回していると、


「今日はお忙しいのに、時間をいただいてすみません」


大熊が丁寧に頭を下げた。調子がくるう、と山本は努めて陽気にふるまう。


「どうした、大熊。べつに俺はいつだって時間はあるぞ。そんな水臭い」


真剣なまなざしで、大熊は話を始めようとした時、

失礼します、と先ほどのスタッフが戻ってきた。


「ワインのメニューをお持ちしました。本日はコースを承っております。メインは肉料理となっておりますが、苦手なものなどはありませんか」


「はい大丈夫です」


大熊は、いつもの愛想のよい感じではなく、静かに答える。


「特に苦手なものはありません。なんでもよく食べます。ワインはよくわからないので、お勧めをお願いします」


場違いを自覚している山本は、おどおどしながらも陽気に答える。


そして目を上げると、山本はスタッフが思いのほか若いことに気が付いた。店に入ったときは、年配の女性だと思ったが、店内が暗いのと、このスタッフの動作がおっとりしていたからだ。おっとりしているといっても、遅いのではない、立ち振る舞いが綺麗なのだ。


品のいい女性だなと見とれていると、

「山本さん」

たしなめるように、大熊が割り込んでくる。


山本が鼻の下を伸ばしたことに気づいたらしい。スタッフはうっすらと笑い、

「ありがとうございます。それでは、ワインは当店の店主が大熊様に、ぜひにと用意したものがありますので、それからお持ちします。それでは失礼します」

と会釈をして去っていった。


「なんか、財布が心配になってきたけど」


山本は元気のない大熊を笑わそうとして、軽口を言ってみるが、反応は薄い。


かえって大熊は、山本を睨むように話し始めた。

「今日は、お話したいことがありまして。もう聞いているかと思いますけど、私の不倫の話です」


常とは違う決然とした口調に、山本は驚くが、大熊は気に留める様子もなく言い放った。


「私のせいで、2階のガキどもと一悶着あったとか。申し訳ありませんでした」



札幌支店の3階は社員食堂になっている。

40~50人は座れるようにテーブルと椅子があり、11時30分頃から13時30分頃まで、おのおの時間に余裕があるときに食事をする。


支店の窓口業務を担当するいわゆる一般職の女性たちは、2交代で60分ずつ時間が決められているが、融資部門の総合職などは10分ぐらいで飯をかけ込んだら各々職場に戻っていく。


食堂の外には、ソファなどのある休憩室と、喫煙所が設けられている。喫煙所といっても、エレベータのホールの隅に灰皿と空気清浄機が置かれているだけのものだが、一応天井までは届いていないものの、2メートルほどのアクリル板のようなもの四方をおおわれている。


結局、煙は上から多少は漏れてくるのだが、喫煙所の予算は本店から降りてこないらしい。他の支店では、店内すべて禁煙であるが、札幌支店は、さすがに冬の北海道は外でタバコは呑めないだろうということで、お目こぼしにあっているようだ。


山本がいつものとおり、昼食は食べずに、ソファで10~15分程度の仮眠をとっていると、その喫煙ルームからの騒ぎ声で目が覚めた。喫煙ルームからはソファが死角になっている。


「今は当分、静観した方がいいと思う」


「静観、っておまえ日経平均連動しか買ってないのか」


「だって、うちらはインサイダーとかいろいろひっかかるじゃん」


「そんなの、億単位の金だろ、数百万単位だと、証券取引所にもわかんないよ」


「でも万が一もあるしな」


「俺は、営業部から聞いた話で、300万円近くもうけたぞ」


「おい、声が大きい」


こそこそと、何やら話しているが、余計怪しくみえるのは、本人たちは分かっているのだろうか。


安眠を妨害された山本は、不機嫌な心持ちで耳を澄ませた。どうやら2階の営業部の若い担当者連中らしい。万引きみたいに人目を気にしながら、こそこそと数百万儲けてどうするんだろう。本当に志の低い連中だ。


これ以上、つまらない話も聞きたくないと、起き上がった山本が、あくびをしながら、通り過ぎようとすると、向こうの方から話しかけてきた。


「山本さん、お疲れ様です」

先ほど300万儲けたと自慢していた調子のいい石田だ。


「別にお疲れじゃない、寝てただけだから」


「すみません、お疲れのところ起こしちゃって、聞こえたかもしれませんが、さっきのインサイダーの話、冗談ですから」


「インサイダー、何の話だ」と、聞こえないふりをした。


「あっ、そうですか」

と、山本を警戒している様子だが、不自然にならないように別の話をしだした。


「そういえば、山本さん、大熊の不倫の話を聞きましたか」


「不倫?」こちらが驚いている間に、2階の若手営業担当者同士で盛り上がっている


「えっ、あの健康優良児みたいな大熊が不倫!」


「えっ、それって、まさかこの支店の奴じゃないよな」


「まさか。なんでも、俺の後輩に聞いた話では、東大の大学院時代だって、しかも指導教官の教授だって」


「まじで、教授って、結構な年じゃないの」


もう、山本のことなど気にも留めていない。高校生のうわさ話のように、大の大人がもりあがっている。


「おい、お前ら、そんな風に人の陰口をいうもんじゃないだろ」

山本の言葉に、一瞬、その場は静かになるが、

お調子者の石田が、まぁまぁと山本の腕を触りながら、

「でも山本さん、相手は退官近いっていうと、じいさんですよ」

などと、話をやめる気もなさそうだ。


呆れた山本が軽く手を振って、その場を離れても、噂話は続く。


「へえ、大熊がねぇ、人は見かけによらないな」


「しかもね、相手の妻から訴えられて裁判沙汰だってよ」


「すげぇな、よくうちに入社できたよね」


「もしかして、博士課程も体で勝ち取ったんじゃない」


「案外そうかもね」


階段を降りるまでに聞こえてきた内容のあまりの下劣さに、山本は怒りを止めることができなくなっていった。


勢いよく階段を駆け上がり、喫煙室まで戻ると問答無用で、石田の頬を殴った。

はずみで、よろける石田が、喫煙室を囲んでいるアクリル板にぶつかり、大きな衝撃音がフロア全体に響いた。アクリル板の一面が大きく割れている。破れはしなかったものの、大きなへこみと大きな亀裂、何より山本の剣幕に、喫煙ルームの中の面々の表情は固まったままだ。


「このっ、クズどもが!」

と言い捨てて、山本は肩を怒らせながら階段を下りた。石田のフォローはしない。



怒りで我を忘れるとはこのことか。

驚きと戸惑いが交錯する中、他人の風聞をタネに喜んでいる連中に怒りを覚え、自分でも感情を抑えることができずに支店を飛び出し、山本は支店の前の大通公園のベンチに座っていた。


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