【連載小説】稟議は匝る 7-1 東京・日比谷 2006年11月14日
7-1 東京・日比谷
(緊急特別融資)
東京日比谷の農林銀行本店ビル6階の喫茶室は、広々としたフロアに古い学食のような白いテーブルと木製の椅子が30席程度配置されている。
西側が全面ガラスになっており、大手町駅から日比谷駅までのパノラマで皇居がみえる。お堀から皇居まで高い建造物がないので、見晴らしは抜群。今日のような晴天ではなおさら。
悦に入りつつも、こんな高いところから、皇居を見下ろして大丈夫なのかと思いながら、朝7時に、ぶ厚いグラスに注がれたバナナジュースを飲むのが審査部総括の豊川の日課となっている。
この喫茶室は、農林銀行内部にある職員専用喫茶室だ。喫茶室の運営は外部委託しているが、朝7時から開店している。この朝早い開店時間は、農林銀行の役員が設定したという。
良くも悪くも農林銀行の役員は全員寝ないで仕事をしてきた仕事人間ばかりだ。
農林銀行は、役職は年功序列であるが、実質的な決定権を持つ職掌はどの部署でも総括担当そとよばれる30代のエースが握っている。
その部署の計画策定、人事評価はもとより、各々の稟議の裁可の原案を作成するため、実質的な権限者といってよい。
その総括担当は、本店の所管部の他、全国の基幹店舗と併せて約80名いる。いわゆる36協定を無視して働いているのはそれら総括担当だけと言ってよい。
職員4000名の残りのほとんどは定時上がり、有給完全消化で人生を満喫している。農林銀行は100年前の創業以来、役員はすべて総括担当経験者が就任している。ひとつの例外もない。
そのため多少のえこひいきや運の要素が強かったとしても、定時上がりのその他大勢からは、ある意味公平な仕組みかもしれないと納得感が得られている。
その役員が、就任して最初にやりたくなることは、この喫茶室の開店時間を早めることらしい。20年前は12時開店だったのが、今は7時。会社で寝泊まりする人に、朝のモーニングくらい食べさせてやってくれということらしい。
本来ならば、自分の実体験から、一部の人間だけが、寝ないで働くような仕組みはおかしいと働き方改革をするのが役員の仕事であろうに。選ばれた人間が寝ないで働くことを変えようとしないのはいかがなものか、などと考えても詮無き事、豊川は、ただただ、この景色を眺めながらバナナジュースを飲んで今日の仕事の運びを考えるのが、ささやかな楽しみであった。
今日も指定席に座り、バナナジュースを片手に手帳を開くと、トゥルル、トゥルルという内線の音が聞こえた。おそらく豊川宛だ。こんな朝早くにどの部署だと思うと、
「業務時間外にすみません。豊川さん、電話です」
と、腰の低いおそらく30歳前後のふくよかな女性の店員が丁寧に取り次いだ。
左手の薬指に結婚指輪を外した跡がある。
豊川は私の業務時間外を外部の店員さんに気を使ってもらうことじゃないのにと思いながら、
「すみません」と言って受話器を取った。
受話器の向こうは、凛々しい声の秘書室の島津だ。一瞬で目が覚める。
「業務時間外にすみません。専務がお呼びです。至急専務室までお越しください」
同じ呼びかけでも、さっきの店員さんと全く雰囲気が違うのが、不意に面白く感じられ、至急の案件にも緊張感がでなかったことが、向こうにも伝わったのか、
「豊川さん、至急でお願いします」
と念押しされた。
秘書室の島津とは、3年前に付き合ったが、長くは続かなかった。長く続かなかった理由も特に考え付かないが、自然消滅と言っていい。まれに社内で出会うこともあるが、虚礼が強めに出るのは主観か。
11階はエレベータを降りたところに受付があり、秘書が2名と、警備担当の2名が常駐している。
豊川には、その手厚い人員配置が、役員の意向を演出するためのインテリアに思えてならない。だが、内心をおくびにも出さず、
「審査部の豊川です、専務にお声掛けいただきました」
と深々とお辞儀をすると、秘書が1名立ち上がり、専務室に先導する。
役員に会うために何人の人間を介するのか、うちの会社もつくづく余力があるよなと考えながら、そういえば、時間外に呼ばれるのは初めてだなと気づき、豊川はいずまいを正して専務室のドアをノックした。
専務室は、30坪位ぐらいはあるだろうか。
1番奥にマホガニーの机があり、手前に応接スペースがある。壁面には幅3mの絵画があり、この絵画は専務更迭のたびに入れ替えられるため、専務の最初の仕事は絵画選びともいわれている。
そんな見慣れた風景に、まったく異質なものがあった。
一目で高価なオーダースーツとわかる装いの年配の男性が3名、床に正座、いや頭を下げたままなので土下座なのか、をしている。
見てはいけないものを見た気がして、とっさに部屋から出ようとすると、専務が大きな声で呼び止めた。
「豊川君、いいんだ、中に入ってくれ」
「はい、失礼致します」
とは言ったものの、壁に張り付くようにその場にたちすくんだ。
「豊川君、呼んだのは他でもない。ピンク案件だ」
ピンク案件、
いやらしそうな響きであるが、農林銀行でこれを聞いて寒気がしない者はいないだろう。
緊急特別融資、ボキャブラリーのかけらもない名前であるが、それが正式名称かも怪しい。
行内の手続き規定には明記されておらず、戦後の混乱期の役員会決議の議事録を根拠としているらしいが、実際に目にしたことがある人間は限られている。通常の稟議ではなく、特別に薄い写し紙のような紙に手書きするものであり、うっすらとピンク色をしているから通称ピンク稟議と呼ばれている。
薄い紙なのは、いざという時食べて証拠を消せという意味があるとか、誰も存在を知らないので、まことしやかな噂だけが広まっている。要するに代表役員の絶対命令書である。
「そこにいらっしゃるのは、藤田頭取とうどり以下、まほろば銀行の方々です」
言葉尻は丁寧だが、何の感情もこもっていない声で専務が紹介した。
改めて、豊川は、そこにいらっしゃる方々をチラ見するが、みなさん、ピクリとも動かない。
何が起こっているのであろうか。
「豊川君、急ぎなので要点をいう。今日のロンドン時間15時までに、まほろば銀行ロンドン支店に3000億円をユーロ建てで送金したい。可能かね」
ロンドンとの時差は8時間。今、7時だから、16時間か。
「実務的には、おそらく可能です」
「おそらくでは困る、出来るのかね、できないのかね」
うちの銀行の外為限度は5000億円だが、それも内部規制であって、送金するだけなら1兆円でも2兆円でも可能だ。そんなこと専務が知らない訳はないのに、私に何を言わせたいのだろう。
「はっ、3000億円程度であれば、特に支障なく実行できます」
まほろば銀行のみなさんは、土下座どげざの姿勢を崩さないが、ほっと安どの雰囲気が伝わってくる。
「・・・。それで、その3000億円の送金は、私の権限で可能かね」
どこか芝居じみた専務の言い回しに、豊川は得心した。
はぁ、なるほど、これを私に言わせたいのか。
3000億円を超える案件は役員会の決定が必要であるが、3000億円以下は、代表権を持つ役員は緊急性がある場合、専決権限で決裁し、役員会への事後報告で追認される。ただし、手続き上、可能であるだけで、当日融資で3000億円など、過去に誰もやったことがない。だが可能ではある。
「手続き上は、専務の専決で可能です」
豊川が言い切ると、専務は大満足げに、ではやってくれといって、内線で秘書を呼び出した。
さして間もおかず、隣室から選任秘書がでてきた。
「佐久間君、緊急特別融資を行うから、稟議を豊川君に届けて下さい」
やはりどこか芝居がかった専務の言葉に、秘書は一瞬青ざめた表情をしつつも、
「かしこまりました」
といって隣室に下がった。
その後ろ姿を見ながら、豊川はポーカーフェイスのまま思いを巡らせていた。
ピンク稟議かぁ、せっかくいい感じで出世して総括になったのに、俺の命数も尽きたのか。
この状況から察するに、まほろば銀行は資金繰破綻はたんの危機なのだろう。
今日の今日の融資実行ということは、日銀も、財務省も見放したか、まったく気づいていないか、おそらく後者だろう。
そうすると3000億円貸し倒れの可能性もあるが、うちの30兆円の実質含み益からすれば、帳簿の操作でなんとでもなる。むしろ、専務がこの案件を奇貨として何かしようとしているな、ぐらいまでしか一介の総括担当には推測の域を出ない。
色々考えても仕方がないと豊川が思ったところで、秘書がクリアファイルから薄い写し紙のようなものを出して机に置いた。
「緊急特別融資、稟議をお渡しします。」
やはり声が緊張している。