【連載小説】稟議は匝る 7-2 東京・日比谷 2006年11月14日
ピンク稟議、実物は初めて見る。
通常、一般の稟議は特注の稟議ファイルにつづられ、電話帳のような資料とセットで関係部を回付される。ファイルを開くと第1頁目には、表題と概要が書かれた紙があり、関係部署の印鑑を押す枠線が引かれている。
通常、審査部に回付される融資案件は、支店4つ,所幹部4つ,審査部4つ,の計12個の印鑑が押されている。金額が大きな案件や、重要な案件はこのほかに、法務部、総務部、コンプラ部の他、関係役員にも回付され、計20~30の印鑑が押される。
このピンク稟議には、2個の枠線しか引かれていない。
しかも専務の印鑑はすでに押してある。担当欄は豊川に押せという意味であろう。
さっきの話を、同稟議になんと書こうかと考える間もなく、もう字が書かれている。
”本日、まほろば銀行ロンドン支店に3000億円送金、ユーロ建て、同行宛融資扱い”
理由も条件もないのだ。
窓口の送金指示書でも、もう少し情報があるものだ。あまりのシンプルさに豊川は内心呆れた。
実は、銀行自身が他の銀行宛に送金する場合、口座番号は必要ない。
銀行と支店名だけで送金することができる。行き場のないお金は、銀行の匙加減だ。そういった口座を通さないお金を金融機関の人間はお金を浮かせるという表現を使う。
また送金する場合の口座番号として、実務では、備忘として9999と連続する数字を並べることが多い。なので、実はこの1、2行で3000億円送金できる。おそらくすべての銀行の共通事項だ。
あまりの現実感のなさに、どうやって、専務室から審査部まで戻ってたのかも定かでなかった。ただはたと気が付くと豊川は内線で、資金為替部、外国営業部の各部長に稟議の内容を口頭で伝えていた。
両部長ともに、特に慌てた様子もなく、手続き準備は進めておくので、ピンク稟議実物を回付するようにと念押しだけして内線は終了した。
稟議の現物を2階の資金為替部長に手交して、豊川は6階喫茶室に戻った。
時計は7時35分を指している。
もう1日が終わったくらい疲れたが、まだ30分ほどしかたっていない。
店員に、
「さっきのバナナジュース残ってますか?」
と声をかけると、店員が笑顔で
「新しく入れなおしますよ、サービスです」
と答えた。
7時には、誰もいなかったが、この時間には半分くらいの席が埋まっている。
いつもの席ではない席に座り、豊川は深いため息をして考え込む。
店内は、新聞紙を広げる人、朝食を食べる人、女性同士おしゃべりをする人々など、だいぶにぎやかになっている。
3000億円を当日に準備。
日本中のどの銀行でも、そんなことはしない。どんな良好な関係を築いている1部上場企業でもあり得ない。おそらく2週間前に言われても、まず無理だ。
おそらく、ほとんどの銀行は、取引先から当日3000億円必要などと、言われたら、即座に口座をロックし、保有する担保はすべて処分する。銀行なんてそんなものだ、本当に困ったときには助けやしない。
銀行自身の資金繰りミスもあり得ない。現在の銀行業務はすべてシステム化されており、何重ものチェックがかかっている。ヒューマンエラーが入り込む余地は皆無と言っていいだろう。
であれば、まほろば銀行は、どんな原因で資金繰りに支障をきたしたのか。
おそらくグループ企業の不祥事だ。
まほろば銀行は、言わずと知れた「まほろばグループ」の銀行部門。まほろばグループは、鉛筆から戦車までつくる日本を代表する製造業。おそらく、同グループのいずれかの部門に、ヨーロッパで何かあったのだ。
一般的に、銀行はすべての業種の中で力関係の優位性を持つ。やはり金を扱っているものが1番強いのだ。
しかし、まほろばグループは違う。同グループの代表が月1回、第2木曜日に集まる二木会の存在は、誰もが知っているが、その席次は、ほとんどのものは知らない。二木会の席次は、まほろば重工の会長、社長、まほろば商事の会長、社長、まほろば電気の会長、社長、まほろば自動車の会長、社長、まほろば化学の会長、社長、その次が、まほろば銀行の頭取だ。副頭取の参加は認められていない。
天下のまほろば銀行の頭取も、グループの中では、お茶くみ係ぐらいの地位だ。またグループの頂点に立つ重工の会長は、毎年12月に富士吉田の古い旅館で進退を決めるのも恒例と言われている。
おそらく来月の二木会に向けて、会長選びの綱引きがグループ内で行われていて、あの3000億円は一方の会長候補側の不祥事のもみ消しのための金だ。
銀行はハナから蚊帳の外、「いいから3000億用意しろ」ぐらいで内容も聞かされていないのかもしれない。
名探偵よろしく思考しながら、そういえばと豊川はこの3000億円融資を押し込んできた専務に思いを致した。
まほろばグループ内でも機密扱いであろう情報、うちの専務が知る由はないはず、ただ匂いをつかんでこれを奇貨として、何か自分の地位を固める材料にしようとしているのだろうか。なんとまぁ思い切りの良い。
まあ、自分には関係ない話と言ってしまえば、それまでだしと独り言ちながら、豊川は、バナナジュースの残りを音が出る勢いですすった。
周囲の避難がましい視線をもろともせず、
「はぁ~、それにしても」と、豊川は深いため息をついた。
審査部の「総括担当」に、しかも同期トップでなったから、部長職ぐらいまでは出世できるかと思ったが、ピンク稟議を書いたら、もう駄目だな。
たぶん次の転勤で課長に昇進の上、グループ企業に出向となり、「役員候補はいろんな企業の文化に触れなければいけない、期待しているよ」などの夢物語を聞かされながら、はた目には、一見同期トップの出世をする。
しかし現実には2度と本社に戻れない。おかしいなと思う頃には、当の役員も会社にいないのだ。つまるところ、ピンク稟議を書いたら最後、中枢部からは外れていくということだ。
まさに敬して遠ざからんとはこのことだ、と笑いたくなるが、
いろいろ考えれば考えるほど、むなしくなるばかりだな、豊川が悲観していると、
「バナナジュース、お代わりはいかがですか」と、
満面の笑みで、さきほどの店員が話しかけてきた。
そのまぶしい笑顔に、豊川も思わず
「では、お願いします」と言って、グラスを手渡した。
スキップでもしてるような軽やかな後ろ姿をみて、豊川はぼんやりと思った。
たぶん、彼女は非正規、指輪の跡や身に着けているものの雰囲気からおそらくシングルマザーだ。
給与は時給扱いで、売り上げが伸びようが、下がろうが全く関係ない。でも彼女は、接客を心から楽しんでいるんだろう。
それに比べて、おれは何だ。
三度、大きなため息をついたところで、皇居を見下ろす大きな窓に映る自分の顔が見えた。情けない顔をしたおっさんがそこにいた。
年収1500万円、家は会社支給で住居費不要、定年までに2500万円まで階段式に給料は上がる。倒産やリストラの心配もなく、恵まれた環境で、ただただ出世の心配か。
いつからこんな思考になったのだ。ああ嫌だ嫌だと自己嫌悪に陥りかけたところで元来の豊川の切り替えの早さが顔を出した。
まてよ、逆を言えば、出世はしないが、首にもされないし、とにかく次の転勤までは怖いものなしだ。
専務が好きに仕事をしているように、おれも好きに仕事をしてみるか。
皇居を下に見下ろす大きなガラスの向こうの日差しも明るくなった気がしたところで、豊川は立ち上がった。
バナナジュースのお代わりを持ってきた店員のお盆から、グラスを受け取り、一気飲みして、グラスを返す。
「バナナジュースご馳走様、今日の分は専務につけておいてください」
「専務って、あの、」
「大丈夫です、けいちゃん、いや、専務の秘書の島津さんが後から払いに来ますから。きっと多めに払うと思いますよ」
なんだか、愉快な気分にすらなってきた豊川がそう言うと、何を根拠に納得したか、わからないが、
「わかりました、いってらっしゃい」
ふくよかな店員は満面の笑みで送り出してくれた。
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