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[#タクツツレヅレ (1)] 流されるのではなく流れていきたい

 

あけましておめでとうございます。(投稿1日遅れたけど)

今日は「自分のペースを守ること」について考えていた。

まあ、私自身は「マイペースだね」と時々言われるのだが、でもマイペースが崩れると本当に何もできなくなっちゃうのでね…。


上善水の如し

『老子』の一節に、

上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に処る。

『老子』第8章

というのがある。
水というのは、「万物を助け、育てて自己を主張せず、だれもが嫌うような低い方へと流れて、そこにおさまる」のだということが述べられている。

これは、私が理想の一つとするあり方だ。水のようにスルリと生きていたい


水が激流を流れていた場合

しかし、その水が例えば激流を流れていると、自分を見失ったりする。
実際、自分は周囲の動きやテンションにつられて、変に張り切りすぎるときがある

そうなると、やたら喋りすぎたり、自分でも何を言っているか分からなくなったりする(「普段でもわからんわ!」と言われたらどうしようもないけど)。

でもそれって、流されている

人間は水と違って意志を持っている(と思いたい)が、その意志する能力がうまく発揮されないと、なかなかしんどい。
自分の意志で、「流れて」いかないといけないと思う。


流されるのではなく流れる

つまり、周囲と無用な軋轢を生まず、目立たなくても皆のためになるような行いをするのはいいけれども、周囲の動きや雰囲気に流されることなく、あくまでも揺るがぬ芯を持った人間でありたい。……ということだ。

出しゃばらないけど流されもしない。難しいねぇ……。

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