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逃避香

限界を迎えようとしているサトシには自らその限界の境界線から離れようとする術を持ち合わせていなかった。
結婚はしないのか、良い人はいないのか、と言った問いを30歳になってから多く受けるようになった。その問いを受ける度に苦笑いを浮かべてスルーするように努めてはいるが、目に見えないストレスは確実にサトシの心に積み重なっていった。
恋愛する暇がないほど労働に夢中なのか、と言われると、サトシ本人としては夢中になろうと思いつつ、周りとの環境にうまく馴染めずにいた。
特にパワハラには至らずとも、粘着質な指摘を繰り返してくる上司から受けるストレスがサトシを悩ませていた。
仕事を辞めてしまおうか。そして地元に帰ろうか。
そんなことをサトシは幾度となく考えるが、仕事を辞めた先のことを考えると不安を感じ何もできず、結局のところ、日々の生活を繰り返していくこととなる。
もしサトシに酒を飲む愉しみを知っていれば積み重なった心の重みは軽くなっていたかもしれないが、元来の下戸であるサトシにその選択肢は残されていなかった。
何か楽しめる趣味でもあれば、と思いつつも土日の休みは身体の回復を目的とした睡眠に費やされるため、心の回復までには至っていなかった。
サトシの心は確実に重くなっており、限界を迎えようとしていた。

「はぁ、今日も終わる」
いつものように日付が変わる少し前に帰宅したサトシはため息混じりに郵便ボックスに手をかけた。
物を貯めることを嫌うサトシは日々の郵便物の確認が日課となっていた。
とはいえ、サトシの郵便受けに届けられるものといえばガスや水道の利用明細とただゴミと化すチラシばかりだった。
今日はチラシが数枚。毎週のように投函されるハウスクリーニングの広告やクレジットカードの過払い請求のチラシ。
いつものように一瞥してゴミ箱に捨てようとした中でサトシの目に留まったチラシがあった。

今のあなたに必要な香りを
男性専用アロマサロン「Aroma Travel」
オープン

隣駅の住宅街に開店したお店のチラシが入っていた。
男性専用のアロマサロン?
なにかいかがわしいお店なのだろうか。
しかし、落ち着いたトーンの色調と明朝体にて綴られている文章からはそうしたいかがわしさは感じられず、むしろ高貴な印象を受けた。
そしてサトシは店名が気になった。
Aroma Travelとはどういう意味だ。
アロマ旅行?
さらに「今のあなたに必要な香りを」というコピーも気になった。
「今の俺に必要な香りってなんだ?」
サトシはそのチラシだけを残し、残りのチラシはゴミ箱へ捨てた。

普段は身体の回復のために過ごす休日だが、今日は久々に外に出かけることにした。と言っても隣駅の住宅街までなのだが。
先日投函されていたチラシに掲載されていたホームページにアクセスし、アロマトリートメントの予約を行った。
ホームページを見るとセラピストは男性だった。
チラシのクリエイティブから感じ取ってはいたが、いかがわしさは皆無であることがホームページで確認し一安心していた。
雨の降る中、自宅からしばらく歩いていると地図に掲載されている場所へ辿り着いた。
そこは3階建てのアパートとなっていた。
そのアパートの一室がサロンになっているとのことだ。
予約した時間となり、サロンのインターホンを鳴らした。
鍵が開く音がなり、扉が開いた。
「お待ちしておりました。お足元が悪い中、ありがとうございます。どうぞ中へ」
物腰が柔らかそうな、それでいて笑顔がとても眩しい男性が出迎えてくれた。
年齢はサトシよりも幾分か若いと思われる。
サロンの中に一歩踏み出した瞬間、サトシの鼻腔をアロマの香りが通り抜けた。
その香りは一言で言えば良い香りなのだが、様々な良い香りが混ざった香りであり、今までのサトシの生活の中では嗅いだことのない香りだった。
「いやー、良い香りですね」
「ありがとうございます。お出迎え用のアロマを焚いているので多分その香りですね」
「なんの香りですか?」
「今日はブルーサイプレスとラベンダーとシダーウッドのブレンドです。雨が降っている時はこのブレンドにしているんです。爽やかなんですけど、落ち着きを感じられる香りになっているかと」
ラベンダーは知ってはいたが、ブルーサイプレスとシダーウッドは初めて耳にする名前だった。
こんな香りもあるのか、とサトシは頷いた。
「まずはこちらの椅子におかけください。あっ。ハーブティーもありますのでどうぞ」
今まで生きてきた中でハーブティーを飲むことは何度あっただろうか。おそらく片手で数えるぐらいではなかろうか。
久々に口にしたハーブティーは冷えた体に優しく温かく沁みた。
「当店ではお客様の体調や気分に合わせてアロマを調合しております」
「そうなんですね。人によって違うんですね」
「はい。お客様のようにサラリーマンの方もいれば、スポーツ選手の方もお見えになる時もありまして、その人にとって今、必要としている香りを考えて調合しています」
「いやー、お恥ずかしい話、アロマなんて買ったこともないのでそんなに種類があるなんて知らなかったです」
「男性ですとなかなか手にする機会もないですもんねぇ」
他愛のない話を続けていく中で緊張感は和らいでいった。
「ところでサトシさん。今、どんなことでお悩みですか?」
「何か落ち込むことがあったってことはないんですけど、日々忙しくて・・・。帰りもいつも遅くて、ただなんとなく日々を消費している感じで疲れちゃって」
セラピストが優しく頷く。
「とはいえ、土日は休めてるんです。けど、自宅でずーっと寝ているだけなんです。だから休めてはいると思うんですけど、どうも少し、辛くて・・・」
そう話し終えるとセラピストの顔は笑顔から少しの憂いさを帯びていた。
ただ憐れんだのではなく、心の底からの同情をその顔から感じ取った。
「お仕事、大変なんですね。確かに体は休まっているかもしれない。ただ、心はなかなか休めていないんだと思います。そういう人、結構多いんですよ」
(おそらく)年下ではあるが、実にしっかりしているなぁ、とサトシは感じた。
「わかりました。では、今からアロマを調合していきますね」
セラピストは箱からアロマオイルの瓶を取り出した。その箱には80種類以上のアロマオイルがあり、まるで科学の実験のようだった。

いくつかのアロマオイルを手にして匂いを嗅ぎ、調合を進めていった。
「そうですね。ブルースプルースというアロマを使ってみましょう。これは浄化のアロマでして疲れ切った身体に元気を与えてくれます」
そのほかにも何種類かのアロマを調合し、オリジナルブレンドのアロマオイルが完成した。
「お待たせしました。匂い、嗅いでみますか?」
自分のために作られたアロマオイルの匂いを嗅いでみる。
その瞬間、鼻から全身にかけて香りが突き抜けた。
「これ、すごく好きです」
「よかったです。ではこれを皮膚に塗っても良いように希釈してマッサージを始めていきますね」
紙パンツに着替えたサトシはマッサージベッドにてうつ伏せになった。
「では、始めますね」
サトシの背中にアロマオイルが塗られ、マッサージが始まった。

サトシは心地良いマッサージと香りを受け、深く呼吸をした。
いつから呼吸が浅くなっていたのだろうか。
久々の深呼吸を行った後、すぐに眠りの世界へ。
そう時間はかからなかった。

そこは古びた校舎だった。
懐かしさを感じつつも何故自分がここにいるのかサトシは困惑していた。
目線をキョロキョロしながら校舎の中を歩き進んでいくと、とある教室にたどり着いた。
そこには少年が1人、椅子に座り、机の上にあるノートにがむしゃらに何かを書いていた。
その様子が気になり、教室の中に入る。どうやら気付かれてはいない。
その少年が書いているノートに目をやるとそこには竜のイラストが描かれていた。
鉛筆で描かれているため、黒一色なのだが、躍動感があるのは濃淡によるものだろうか。
今にもノートを突き破り、天に昇りそうな勢いを感じる、立派な竜だった。
少年のこの熱気はどこから生み出されるのだろうか。
ノートから視線を上げ、少年の顔を覗いた。
それはサトシだった。

「サトシさん、すみません、起きてください」
セラピストからの声掛けを受け、我に戻った。
「お疲れ様です。背面の背術が終わりました」
サトシはサロン内の時計に目をやるとしっかりと時間が経過していたことを確認できた。
「ぐっすりとお休みになられていたのでお声がけせず、そのまま施術させていただきました。次は正面の施術となりますので仰向けになってください」
サトシはウトウトしながら体の向きを変えた。

その後は眠ることなく施術を気持ちよく受け、終わりの時間となった。
「とても気持ちよかったです。つい寝ちゃいました。あまりに気持ちよくて」
「そう言ってもらえて何よりです」
セラピストは優しい笑みを浮かべていた。
「ブルースプルースにゼラニウム、あとはクローブとジンジャー、コパイバで力強さを引き出しました。ティーツリーやパチュリといったスッキリ系も入れてみました」
こんなにもたくさんのオイルをブレンドしていたのか、とサトシは感心した。
「いや、あまりに気持ちよくて寝てしまいましたが、変な夢を見たんです。昔の自分に会う、という。そして思い出したんです。昔はよくイラストを描いてたなぁ、と。昔は何かアイデアを形にすることが好きだったんです。けど今はなかなかそれができてなくて」
うんうん、と頷きながらセラピストが話し始めた。
「素敵な思い出ですね。人って五感がありますが、どうやら嗅覚だけが脳の海馬に信号を送れるらしいんです。なので香りを嗅ぐと記憶が蘇るらしいんです」
「そうなんですか」
「なので僕はマッサージだけでなく、アロマで過去を振り返ってもらえたら、と思ってこのサロンを開いたんです」
「なるほど。だからAroma Travelという名前なんですね」
「はい。香りによって過去の記憶へ旅に出てもらう。そんな想いがあります。今を生きる現実ってどうもしんどいと思うことが多いと思うんです。だから、このサロンでは少し現実逃避をしてもらってリフレッシュして、明日からまた頑張ってもらえたらな、と思ってるんです」
「香りによる逃避行ですね」
セラピストは笑顔で頷いた。

帰り道。サトシの足取りは軽くなっていた。
明日、何かが変わるということではない。
またいつもの日常が始まるだけだ。
しかし、過去の自分との再会によってサトシは少し前向きになった。
「少し、俺からも何かアイデアを出してみるか」
ドラマのように上司に楯突くようなことはできないが、自分自身で少し変わってみよう。
少しばかり、本来の自分を取り戻したようだった。

もしまた限界を迎えそうになったら旅に出よう。
香りの旅へ。
限界から逃避する術を得たサトシは自宅に着き、現実へと戻った。

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