【SS】高校の勉強が一体何の役に立つと言うんだ。


 一

「あなたは将来、テニスでご飯を食べていくつもりなんですか!」

 職員室に女性の怒鳴り声が響き渡った。

「いえ、そうではありませんが」

 僕は彼女が答えてほしい答えを言った。
 もちろん僕の実力でテニスのプロになることは不可能だ。でも、そうではなくて僕はこう答えてやりたかった「古文でご飯を食べるつもりもありません」と。
 僕を怒鳴ったのは国語の担当教員だった。
 高校二年生になったある日のこと、僕は国語の宿題をやることなく授業を受けていた。もう半年ほどそうしている。国語の課題が試験や受験に結びつくとは全く思えなかったからだ。すると本日しびれを切らした彼女が僕を呼びつけた。それも部活をしている最中のことだった。彼女はわざわざテニスコートにまでやってきた。「勉強もせず部活をしている」という事実で吊るし上げるのがその理由であるらしかった。

「だったら、ちゃんと勉強をしなさい。勉強をおろそかにして部活なんて許されるわけないでしょ」

 彼女はヒステリックに続けた。
 それは、おかしな話だった。テニスで強い高校の生徒のほとんどは僕が入っている高校よりも学力的に言えばランクは下だ。それはつまり、彼らは勉強をせずに部活をしていることに他ならない。そんなふうに考えてはいたけれどそれ以上は深く追求しなかった。はいはいと言って、適当に時間は過ぎていった。 

 二

 あれから十年ほどの月日が流れた。
 高校生の頃のあの大量の宿題に押しつぶされそうだった日々を今でもありありと思い出すことができる。
 僕は普通の企業に就職して、普通のサラリーマンになった。
 どこを見渡しても古文を活用している人はいない。何かを提案する際のスライドに教養を示すために万葉集から引用したりもない。
 では、他の教科はどうだろうか。
 そう考えた時、役に立っている教科の方が圧倒的に少ない。せいぜい英語と数学、それから物理の一部程度だろうと思う。国語は、授業で学んだ知識は全く使用していない。
 数学はほとんど理解できないまま、必要なところだけを大学に入って学びなおした。そう言われれば英語もそうだ。高校の頃、受験を乗り切ったような知識はもうどこかに飛び去ってしまっている。
 忘れてしまった知識は「基礎を知っている」ことにもならない。使われない知識を復習するために僕はなぜあれほど無駄な時間を過ごしたんだろう。
 多分、大人たちは言う。「そうやって勉強をする方法を学んでいくんだ」とか。でも、もしもそうだとしたら高校の頃に教えるべきは「勉強法」であって、各科目の内容ではないはずだ。内容だけ詰め込んで「勉強法は自分たちで考えろ」と言う、それは果たして教育だろうか。
 不思議だ。本当に不思議。「学校はなんのためにあるのか、塾でいいじゃん」の回答は、「学校は人間関係を学ぶ場所」だと言われたりするけれど、その割に人間関係について教えてくれる先生はいなかった。この問題はほとんどそれと同じことだ。しかも、人間関係について教えてくれないどころか、今にして思えば社会人としてちょっとどうかと思う教師のほうが多かった。
 そろそろ、教育制度を抜本的に変えなければならない時代に来ているのではないか。ただの情報としての知識はネットに当たればすぐに手に入る。そんな時代に、私達は一体何を学ぶべきなのか。
 教えるべき教師が、思考を停止していたら、教育は永遠に止まったままだ。


あとがき


私は、社会人になって、「ちゃんと高校のときに勉強をしておけばよかったなあ」と思うことがあります。それは、例えば国公立大学であれば、同じ学費を払っているにも関わらず、勉強をすればするほど、大学に入ったときに受けられる教育の質が圧倒的に高くなり、コストパフォーマンスが高くなるためです。

学問に楽しみを見出すのであれば、良い大学に行ったほうが上質な体験ができることは間違いありません。しかし、そうではなく大学を職業訓練校と同じ様に考えるのであれば、この小説の主人公のような考え方もまた正しいのかもしれません。

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