「ムダなこと」を考える

多くの人が自然言語というインターフェースを獲得したAIの進化に衝撃を受けています。私たちは社会構造が劇的に変化する歴史的な瞬間に生きているのかもしれません。

AIと共生する未来が見える中で「AIと人間を分ける本質的なものは何か?」そんなことを考える日々でした。

私は最近「ムダなこと」に思えることが、人間にとって大切なものなのではないかと思っています。

「ムダなこと」はみんなしたくないモノです。

「ムダ」を省くためにテクノロジーを活用しています。面白いところだけ切り抜いたたショート動画とか、自分の好みに合いそうなプレイリストを自動再生したり、映画を倍速再生したり。

私たちはなるべく予測できない未来を避けて、より結果がわかりやすいファストなもの、リスクが少ないコンビニエンスなものを選ぶことが多くなっていると思いませんか?

でも私はそこに何か、私たちの人間性を発露する機会を奪われている気がしてしまうのです。

この「ムダ」なことは、ビジネスにおいてもより大切になってきていると思います。イノベーションを生み出すには「失敗を許容する」ことが必要だと言われます。実際のところ、結果や成果が求められる宿命にあるビジネスにおいて、「失敗」という「ムダ」を組織として許容することは難しいことだと思います。
経営側は、組織で起きる摩擦を受け入れ、失敗によりお互いに迷惑かけるかもしれないという、心理的な関係性を、カルチャーに内在させておく必要があります。タックマンモデルというチームビルディング理論によると、良い組織には必ず混乱期にあり、それを乗り越えるというプロセスを経験することにより、強いチームになる、と言われています。お互い背中を預けるような関係性を作るには、摩擦や失敗を経て、お互いを理解し合うための時間が必要というわけです。
それは短期的には生産的や効率的な軸を外れるかもしれませんが、長期的には組織をイノベーティブに駆動させるエンジンになります。

社会や地域においても、「ムダなこと」ことが捉え直されてきていると思います。今までは経済的な拡大や進歩が正しいことで、成長しないこと停滞することは「意味のない」ことだったかもしれません。でも今は「サステナビリティ」や「ダイバーシティ」が叫ばれるように、格差問題や環境問題、分断の問題を考えるとき、「拡大や進歩」だけでは現状の課題を解決できません。
例えば「多様性」の社会は、とても面倒臭くて、非効率な社会とも言えます。多様な人が多様な意見を持っており、摩擦を生み出し、多くのコミュニケーションコストが必要です。でも多様性が認められない社会は分断していき、その行き着く先の果ては戦争やジェノサイドなど、排他的な社会につながるかもしれません。日常においても短期的なメリットばかり優先させていると、長期的には本当に大事なことを「ムダなこと」と錯覚しがちになります。

子どもが興味を示しているモノを一緒に寄り添うことよりも、目的地に急がなければならない「今」に目が向いてしまうのです。子どもの知りたいという好奇心を育む時間が、子どもにとって長期的に見れば大切な時間、ということは分かっていても、目の前の「遅れたくない」という気持ちをいつも優先して選択しているということはないでしょうか?
この時間に迫られたファストな社会で、全てに立ち止まるようなことは難しいかもしれません。だからこそ私たちは、意識的に日常の中に「無駄なことを取り入れる瞬間を作る」そんなことが必要なのだと思います。
「ムダ」に思えることの中に、自分にとって大切なことを見つけることがあるかもしれません。

私は昨年、地元で障がいのある人によるアート展を主催しました。ある子どもが展示されたアートを見て「元気が出る絵だね」と言ったそうです。障がいのある人の絵の価値は、子どもにちゃんと伝わるんだなあ、とジンっとしました。

障がいのある人のアート自体、人によっては表現というよりも、ただクセや動き、日常のルーチンだったりすることもあります。しかし彼らのアートは、ありのままの、真っ直ぐに生きている証です。この瞬間に全てのエネルギーを注ぎ込んでいる、その純粋さが人の心を動かすのだなと思います。
そこにはAIと人間を分ける、本質的で、絶対的な「生きる情熱」があります。
私たちも同じです。誰かにとって「ムダ」に思えることでも、自分が決めたことを、不恰好でも不自由でも不完全でも、その瞬間、瞬間に、自分の全てを注ぎ込む純粋な情熱を発揮する、そのときこそ私たちはなまなましい人間そのものなのだと、私は思います。

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