作り手としての解像度を上げる(3)

「作る」も「デザイン」も日常にあるもの

前述したことを端的に言えば「作る」も「デザイン」もデザイナーやアーティストだけが創造性を発揮しているのではなく、誰もが日常の中で「作ったり」「デザインしたり」しているということです。多くの人は「自分」が作り手だという意識はしていないかもしれないが、「作る」も「デザイン」も日常の中で行なっているものだということです。
家族で旅行の計画を立てるとき、子どもたちにどんな体験をしてほしいか?そのためにどんなところへ行くとか?どんなスケジュールで行くのか?どのくらいの予算をかけるか?
人はそのように計画して物事を進めようとするときに、日常の中でストーリーを作り、そのためのデザインをしているのです。

「計画して物事を進めようとしている人は既にデザイナーである」(ヴィクター・パパネック)

作ることに対するハードルを超える

私たちの多くはクリエイターやデザイナーという言葉に対して、一種の壁があるかもしれません。自分の理想としているものや人と比べて「上手」とか「下手」とか、そういうヒエラルキー的な思考を持っているため、自分の持っている技術では何も価値を出せないとか、人から批判されるのが嫌だというような感情が浮かぶものです。
例えばギターを練習するときに、自分の中で弾きたいという衝動を持ってギターに向かうものの、指の痛みや試行錯誤からから生まれる音は理想のものと大きなギャップがあるかもしれません。
この時の作ることに対するネガティブな感情をどのように超えることができるのだろうか?

受け手がいるからこそ作り手は存在できる

そもそも私たちは音楽を楽しむときには「上手さ」だけに注目するわけではありません。誰が弾いているのか、どんな背景でその曲を選んで弾いているのか、どうして今この曲を弾いているのか、などを考えて場合によって「弾き手」との関係値があった上で、その曲を「美しい」と感じたり「心地よい」と感じたりします。
例えば子供の発表会では、我が子がどれだけ練習してきたか、練習により犠牲にしてきたもの、生まれたエピソードなど、そこにストーリーがありそれに共感が加わり、その子自身のストーリーの一部として弾いている曲を受け取っていたりします。そこには誰に比べて「上手い」「下手」ではなく、その人が紡ぐ音が「美しい」と感じる「聞き手」の存在が、「作り手」を創り出していると言えるのかもしれません。
「作り手」は「受け手」がいるからこそ存在できるのです。

自分の持ち味を発揮すること

どうしても自信がない、ひとと比べてしまう場合はどうすれば良いのだろう?
上手くなるというゴール設定を捨てることが必要なんだと思います。一旦上手くなることではなく、どうしたら楽しめるか?という視点の変更が必要です。楽しむためには「自分がどうありたいか?」「自分はどういうことに本当にワクワクするのか?」自分について深く理解することが必要です。この内発的な動機は長期間、自分が作り手として駆動するために本質的に必要な力です。
「作り手」は決してヒエラルキーの幻想を超える必要があります。「強い」「弱い」、「出来る」「出来ない」、「上手」「下手」というヒエラルキーで考えないことです。自分の作りたいものや自分のやりたいことを誰かと比べるべきではありません。
「作り手としての解像度を上げる」ことは「自分の持ち味を発揮すること」です。自分の独自性や持ち味はすでにその人に備わっているものです。自分がどんな持ち味を持っているかを自己認識するのはかなり難しいことです。他の人からのフィードバックや作り出したものに対する人の評価から、自分なりに見つけていくことが必要になります。

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