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団塊ジュニア世代が見てきた東京メンズファッション30年史④

シルバーアクセサリーがストリートの定番に

私が編集者として携わり、確かな手応えを感じた仕事として『銀モノ・スタイル』というムックシリーズがあった。国内外のシルバーアクセサリーブランドをひたすら集めて、カタログ化する内容だった。渋カジブームがひと段落し、裏原ムーブメントへ変化していく中、スニーカー、ジーンズ、Gショックに次ぐストリートファッションの重要アイテムとして、シルバーアクセが多くの若者を惹き寄せていた。

その嚆矢となったのが、コム・デ・ギャルソンに見出された「クロムハーツ」(88年)だった。92年には日本国内での正規販売権をユナイテッドアローズと結び、メディア露出に際しての厳格なルールを採用していた。そのため、掲載についてはクロムハーツの厳しいチェックが入り、他のシルバーアクセブランドと並べて紹介することは御法度だった。私が在職していたワールドフォトプレス社が独占的に『クロムハーツマガジン』を出版することになった経緯もあり、私が担当していた銀モノ・スタイルでは、クロムハーツ以外のブランドを取り上げざるを得なくなった。
 
クロムハーツの創業者リチャード・スタークがカリスマ的存在として取り上げられるようになると、彼と親交のあった「レナード・カムフォート」、「ビル・ウォール・レザー」、「スタンリー・ゲス」の名が浮上した(これらはブランド名でありデザイナー名もである)。デザイナーが謎多き死を遂げたことで一気に希少性が増した「ガボール」を含め、クロムハーツ周辺ブランドの日本での正規販売権をめぐって、さまざまなインポーター(輸入業者)が競り合った。クロムハーツに次ぐ人気を誇っていたビル・ウォール・レザーはビームスとの独占販売権を結び現在も存続しているが、レナード・カムフォートはお家騒動が勃発してブランドが分裂し、短期間で消滅してしまう。
 
クロムハーツの特徴的なディテールであるクラスプ(バネ式の留金)やスイベル(回転パーツ)を発明したとされるスタンリー・ゲスは、恵比寿の老舗アクセショップでありインポーターの恵比寿MICが、その名を伏せ「ゴースト」というブランド名で展開した。また、ビル・ウォールの弟子でグラフィックを得意とする「トラヴィス・ワーカー」も取り扱った。同店のオーナーであり代表の松本元治社長はかなり早い段階でクロムハーツを日本に紹介した実績があり、多くのメディアやスタイリストがその一挙一動に注目していた。当時『銀モノ・スタイル』を編集していた自分はMICのタイアップを担当し、頻繁に海外取材に連れて出してもらい、滞在先のLAで俳優のヴィンセント・ギャロやNBA選手のデニス・ロッドマンと握手するなど、貴重な体験をさせてもらった。
 
一方でクロムハーツ側はこうした周辺ブランドの盛り上がりに対しては沈黙を貫き、特別なポジションを維持することに努めていた。ブランディングとマーケティングの重要性を認識していたリチャードは、やはり別格だったのだ。こうしたアメリカ西海岸のシルバーアクセサリーブランドが日本で異常な盛り上がりを見せたのは、クロムハーツ周辺ブランドの謎多き出自と人脈、情報の少なさからくるさまざまな噂と憶測がその原動力だった。私が携わっていた銀モノ・スタイルをはじめ、スマートの増刊として刊行された『シルバーアクセ最強読本』や、ストリートジャックの『シルバーアクセ完全FILE』などのムック本が次々と出版され、クロムハーツの二番手争いが激化した。

国内シルバーアクセブランドが追随

シルバーアクセサリーの中でも最も象徴的なウォレットチェーンは、ほとんどのブランドで20〜30万円と高額であったにも関わらず、入荷するたびに売り切れとなるほどで、各出版社がこのブームを競い合うように特集した。それぞれのムック本に異なるインポーターがタイアップを打つことで出版社は広告費を稼ぎ出し、メディアとブランドとの共犯関係が形作られていった。中には出所不明の並行輸入品やコピー品を扱う悪徳業者や、法外な値段で売り捌く海千山千の業者もいた。これは90年代後半の第一次スニーカーブームでも見られた現象だった。そうした中で、ファッション誌を中心に支持を伸ばしたのが、「ジャム・ホーム・メイド」「プエルタ・デル・ソル」「ガルニ」といった、アメリカ西海岸バイカー系とは異なるベクトルで紹介されたドメスティックブランドだった。ムックはもちろんストリート誌でも、愛用ミュージシャンや芸能人が登場し、シルバーアクセがストリートファッションにおける重要アイテムとして広く認められた。
 
そうして90年代後半に盛り上がったシルバーアクセだったが、00年代半ばに急失速し、多くのブランドが消滅。結局、一人勝ちしたのはクロムハーツだけだった。もはやシルバーアクセという枠には収まらず、男性の高級ジュエリーブランドとしてのステイタス性をさらに高めていった。一方で、藤原ヒロシが「ゴローズ」ファンであることを以前から公言していた(一時的にカムフォートも愛用していたこともあったが)ので、裏原ムーブメントの信奉者たちの間ではクロムハーツのようなバイカー系テイストはほとんど取り入れられることはなかった。

ミレニアムにはプレミアムなジーンズ

元々は炭坑夫やカウボーイの作業着であったジーンズが、50年代にはマーロン・ブランドとジェームズ・ディーンによってアメリカの国民的衣料となり、第二次大戦後に自由を求める若者たちの象徴として世界へ広まっていった。70年代にはラブ&ピースを掲げた若者たちに愛され、80年代にはマドンナやブルック・シールズといったポップスターがケミカルウォッシュのジーンズ着用し、90年代はカート・コバーンが穿いていたボロボロのジーンズが再び反抗の象徴となった。そんなカートにいち早く目を付けたデザイナーがマーク・ジェイコブスで、ボロボロのジーンズは最新のファッションへと持ち上げられた。
 
その後、ミレニアム目前に世界で広まったのが“プレミアムジーンズ”だった。「セブン・フォー・オール・マンカインド」「アールジーン」「ペーパーデニム&クロス」、「アドリアーノ・ゴールドシュミット」「ブルーカルト」「トゥルーレリジョン」など、アメリカの新興ジーンズブランドが、愛用セレブリティの写真とともに次々と紹介された。それまでは高くても1万円台で買えるジーンズだったが、これらのブランドでは1本2万円以上と高額で、脚をほっそりと長く見せる“美脚シルエット”が、これまでのジーンズブランドとの大きな違いだった。

世界中でジーンズがトレンドアイテムに

クラブミュージックを大胆に取り入れて大ヒットとなった『ミュージック』(00年)で、マドンナが披露したジーンズスタイル(収録曲“ドント・テル・ミー”のミュージックヴィデオの衣装はディースクエアードが担当)や、当時日本でもヒットとなったドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』主演のサラ・ジェシカ・パーカーのジーンズスタイルもこのトレンドを後押しした。若年層にとってデニムファッションのリーダーは、圧倒的にブリトニー・スピアーズで、極端なローライズとヘソ出しは後のY2Kファッションのお手本となった。こうして女性を中心に巻き起こったプレミアムジーンズ人気は、すぐさま男性にも飛び火することに。日本のセレクトショップの中でもバーニーズ ニューヨークはいち早くこの動きを察知し、ジーンズフロアを充実させてプレミアムジーンズ人気を加速させた。
 
このトレンドが男性にもスムーズに移行した理由は、グッチやドルチェ&ガッバーナが、90年代後半から頻繁にジーンズを提案していたこと、さらに「カルバン・クライン・ジーンズ」「ヘルムート・ラング・ジーンズ」(97年)を筆頭とするジーンズラインのヒットがあったことが大きな要因となった。さらに、「ディースクエアード」(94年)や「アンドリュー・マッケンジー」(97年)といった新興デザイナーズブランドも加わって、ジーンズはランウェイに欠かせないアイテムとして格上げされた。また、デザイン要素を高めた高価格帯ラインの「リーバイス・レッド」(99年)や、日本でのマーケティング活動を本格化した「ディーゼル」(78年)といったジーンズブランドが躍進。シルエットはスリムストレートとブーツカットに人気が二分したが、共通するのは極端にローライズであること。前屈みになるとお尻の半分が見えてしまうほどで、レイブ系と呼ばれた音楽イベントやフェスではヘソ出しコーディネートの女性も多く見受けられた。

ヨーロッパのジーンズブランドが台頭

このトレンドは2000年代前半を通じて広く世界に定着。日本国内ではリーバイス、リー、ラングラーという御三家は無難すぎる選択肢で、うんちく重視のこだわり派はヴィンテージもしくは日本のレプリカブランドを、ファッション好きはアメリカ発のプレミアムジーンズブランドを選ぶようになる。もちろん、「エドウィン」「ビッグジョン」などの選択肢もあったが、基本的に国産ジーンズブランドはお洒落とは認められなかった。また、「ディーゼル」「リプレイ」といったイタリア勢には遅れをとったものの、立体裁断を得意とするオランダの「ジー・スター・ロウ」(89年)も日本市場で徐々に受け入れられていった。その後も、「アクネ・ジーンズ」(98年)「ヌーディージーンズ」(01年)「チープマンデイ」(04年)といったスウェーデン勢が勃興。また、後年にはジー・スターと同じオランダから「デンハム」(08年)が加わるが、この源流にリーバイス・レッドのデザインチームがアムステルダムを拠点としていたことが、北欧勢の原動力となっていた。こうしてミレニアムを目前に、アメリカの象徴であるジーンズが世界中でトレンドアイテムとなった。東西冷戦の終結から、政治・経済・文化においてアメリカ一人勝ちという状況が10年続いたことで、ファッション業界もその恩恵に預かり、享楽的なムードに包まれていた。まさか、その翌年に世界を揺るがす大事件が起こるとは、誰もが予想できなかった。

メイド・イン・イタリーという優越感

ミラノの最新ファッションは、流行に敏感な一部の女性(ミラネーゼとも揶揄された)のものという印象があったが、いつの間にか若い男性までもが興味を持つようになっていったのも90年代末の特徴だった。「グッチ」のローファーや「プラダ」のナイロンバッグは男性にとっても珍しいものではなく、原宿や渋谷の並行輸入店が繁盛していた。恋人へのバースデープレゼントやクリスマスギフトとして、高額なブランド品を贈ることがイケてる男子の作法となっていた。アメカジ一辺倒だった若者の一部がジャケットを着て、ブランド小物を身に着け、渋谷や六本木のナンパ箱と呼ばれていたクラブに繰り出すことが典型的な夜遊びとなった。その源流は80年代からのディスコと同じだったのだが、お立ち台とワンレン・ボディコンで有名なジュリアナ東京とは差別化するために、クラブと言い換えるようになっていたことには留意しておきたい。
 
当時ナンパ箱として人気だったのが渋谷の大型店フーラで、入店時には男性のドレスコードとして(テーラード)ジャケット着用が求められた。こうしたことから、大人のお洒落=ジャケット、イタリアのモード=黒という図式が定着し、目立ちたがり屋の若者たちがこの単純な図式を取り入れた。今で言うチャラ男の原型がここにできあがっていた。グッチ、アルマーニ、ヴェルサーチ、ドルチェ&ガッバーナといったイタリアブランドの艶っぽさは、多くの男性にとってのステイタスでもあった。ちなみに新入社員になりたての頃、フーラに同僚たちと出かけて、そのうちの一人がジャケットを着ていなかったために入店拒否をくらい、仕方なく近所の飲み屋に行った。高級店やパーティなどでドレスコードを求められることはあっても、遊びに行く場所でドレスコードを求められたのは、後にも先にもこの時だけだった。

カリスマ美容師ブームが男性にも到来

ドラマで活躍していた芸能人に憧れる女性たちを中心に起こった、カリスマ美容師のブームがメンズにもジワジワと浸透。やはりこのブームにも木村拓哉主演のドラマ『ビューティフルライフ』が影響しており、野沢道生が率いる「アクア」には連日女性たちが押しかけた。さらに人気ファッションモデルの梨花を担当していた川畑タケル率いる、青山「ビュートリアム」がこれに続いた。カット以外にパーマやカラーリングを含めると、かなり高額になるが人気店では常に予約で満杯だった。それまで、多くの男性はシェービングもできる理容店(いわゆる床屋、今風で言えばバーバー)を利用することがほとんどだったが、このブームの影響で美容店を利用する若者も増え、「シマ」「モッズヘア」「ダブ」などが男性ファッション誌でも取り上げられるようになった。

ファッションには平和と金が必要だ

『ノストラダムスの大予言』による終末論(予言と預言が取り違いされたまま広まった、馬鹿馬鹿しい都市伝説)が囁かれた1999年。ユーロに通貨統合されるにあたって、ほとんどのブランドが実質的な値上げとなり、特にイタリアブランドの値上げが顕著だった。とは言え、バイトや仕事をこなしながら生活費を節約すれば、新社会人や学生でもどうにか高級ブランドを手にすることができた。それまで、イタリアのラグジュアリーブランドにはまるで興味がなかった自分が、初めて手にしたアイテムはドルチェ&ガッバーナのコーデュロイパンツで、定価はたしか3万円半ばだった。今でもそれなりに高いとは思うが、手に届く価格帯だったし、すっきりとしたシルエットと高級感のある素材、何よりメイド・イン・イタリーというのが誇らしかった。その後も、友人がセレクトショップの店員からグッチの店員へ転職したことをきっかけに、当時は本当に限られた関係者のみがアクセスできるファミリーセールに潜り込むことに成功。パンクかぶれでアンチ・ファッションだった自分でさえ、この誘惑には勝てなかった。グッチのスニーカーやジーンズを格安で手にすると、いよいよ自分もファッションピープルの一員になれたような気がした。
 
プレミアムジーンズの世界的ブーム、イタリアブランドの躍進の背後には、長く続いていた東西冷戦の終結がもたらした、前向きで享楽的なムードがあったからだった。アメリカとソビエトという二大国家による核戦争の不安は大幅に減退し、イデオロギー対立はもはや昔の話となった。日本を含めた先進国の人々は、消費に明け暮れていた。改めて考えると、バブル崩壊後の90年代終わりの東京の若者はまだそれなりに経済的な余裕があり、新しいファッションに対して貪欲だった。当時の大学生は卒業旅行にヨーロッパやアメリカへ行くことが当たり前で、現地では日本国内よりも安くブランド品が手に入ることも影響していた。

続く

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