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40歳の地方公務員が野球を続けている理由

地方公務員の “ 新家拓朗 ” です。北海道猿払村企画政策課に所属しています。
今日は、40歳の地方公務員が野球を続けている理由をお届けします。

結論は、
野球を続けているのではなく、
野球を続けられているということです。
その理由を順を追って説明します。

父親が登場する後半が、見どころになります。

#私の野球歴

\小学生時代/
猿払村立浜鬼志別小学校 昭和61年4月〜平成4年3月 
メインは1年生から通っていた剣道少年団でした。野球はというと父親と遊び程度、小学校のグラウンドでキャッチボールをしたりノックを打ってもらったりしてました。父親も野球をやっていてしかも投手でした。小学3年生くらいの時に、父親の投球を取り損ねて鼻血を出してからしばらく遠ざかってました。ただ、野球への憧れはあったため、中学では野球部へ。剣道も、野球の練習が終わってから通って、中学生時代に初段を取得しました。

\中学生時代/
 猿払村立拓心中学校 平成4年4月〜平成7年3月
 小学生の頃からやりたかった、軟式野球部に所属。全校生徒150名ほどと小さい学校にしては野球部員は多く30人くらいでした。2、3年生にはとても上手な方が多く、1年生ときは地区大会で準優勝、2年生の時は地区大会で優勝し、全道大会に進出しました。※北海道は広いため、地区予選があり北海道大会となります。運良く、2年生の時にベンチ入りでき、札幌の大きな球場でシートノックを受けることが出来たのが良い思い出です。3年生時代は、強いチームにはなれませんでしたが、最後の大会で勝てたこと何より楽しく野球をできたことがよかったです。良い思い出しか残らなかったので、高校でも野球を続けることに。
ポジションは、1年生の時セカンド、2年生の時ショート、3年生の時はキャッチャーでした。

\高校生時代/
 北海道立浜頓別高等学校 平成7年4月〜平成10年3月
 地元猿払村には高校がないため、1時間かけてバスで通う高校へ入学。すぐに硬式野球部へ入部。初めての硬式球の洗礼に春はだいぶ苦戦しました。キャッチをしても激痛、バッティングをしても激痛と大変でした。全校生徒300人ほどの高校の割に部員は少なく、3年生が6人、2年生が2人、1年生が6人という構成でした。中学3年生の時に、ショートをやりたかったものの、チーム事情でキャッチャーをやっていたということもあって、高校時代はショートを希望し1年生の時はショート。2年生からは外野にコンバートされ、3年生の時はセンターでゲームに出場。結果的に私には外野手が向いていたようです。2年生の時に、着任した監督が甲子園出場経験のあるすごい方で、熱意をひしひしと感じながら指導を受けたおかげで、チームは成長し基本の大切さと勝つ楽しさを学びました。

\社会人時代/
 猿払村役場野球部 平成10年4月〜
 地元の役場に就職。4月1日の初登庁日に当時のキャプテンから背番号23のユニフォームが手渡されました。1年目はセンター、4年目からはキャッチャーとして出場。4年目の21歳から主将をつとめ、14年目の31歳からは監督も兼ねています。入部当初は20名を超える部員がいて、週に4回の練習日組まれているようなチームでした。現在は、昔と状況がだいぶ変わり、なかなか練習はできていませんw
ただ、村のナイターリーグ戦で年間10試合程度と、3つの大会に人数が揃えば出場している状況です。

#野球で得たこと

野球を長年やってきているので好きなのですが、野球をとおして多くのことを得ることができました。

\つながり

学生時代は友人とのつながりができました。
中学時代は、同学年で私以外に9名
高校時代は、同学年で私以外に5名
同じ目標に向かって、練習に励み、勝利すれば喜びをわかちあい、負ければ悔しくて共に泣いた仲間たち。かけがえのない存在です。

社会人の今は、幅広く職場でも異業種でもつながりが生まれました。
野球が好きなので野球部に入ったのですが、そこで生まれたつながりは野球以外の時でも大きな財産となりました。
職場の後輩、先輩。地域の先輩、後輩と交流できる機会となりました。

職場では、同じ所属の職員とは話をよくするわけですが、なかなか他の部署や違う建物で働いている職員との接点は生まれないものです。
役場野球部では、世代を超えて所属しているので新たな交流が生まれました。現在は下は18歳から上は44歳まで所属しています。

継続は力なり、コツコツと取組むこと

野球人生で最も辛い時期は、高校野球の2年生の夏から秋にかけてレギュラーを外れたことです。原因としてはとにかく打撃が絶不調だったこと。打てなければ焦り、気持ちが弱くなって、また打てないという悪循環に陥っていたと思います。当時は冷静に考える余裕がなかったのであくまで予想ですがw

ゲームに出れない悔しさともどかしさから、辞めたいとも思いました。親にも相談したような記憶が残っています。ただ、踏みとどまりました。そして、冬から春にかけて必死で練習に取り組んだわけです。冬から春はゲームもないので練習に集中できたのかもしれません。

春になり、「やるだけのことはやったはず」と思い切ってプレーができるようになったような記憶があります。おそらく、技術の向上も多少はあったとは思うのですが、大部分は気持ちだったんではないかなと今では思っています。コツコツ努力することが本当に大事なことと学びました。

やれるだけのことをやって、臨んだのであれば悔いも残らないのでは。そういう気持ちになれたのかなと思います。最後の夏はもう一勝というところで北海道北大会には届きませんでしたが、本当に野球部に入って良かったと今でも思っています。

こうした取組みをできたのも、2年生になった時に赴任された川村監督(現在は筑波大学 体育系 准教授、筑波大学硬式野球部監督)との出会いがとても大きかったです。甲子園出場経験があり、大学でも硬式野球をやられていた監督でした。監督のプレーを見ても、ノックを受けても、野球理論を聞いてもその異次元のレベルの高さに驚くばかりで、ついていくのに必死でした。

気持ちの入っていないプレーをした時には、ものすごい剣幕で怒られもしました。それだけ、真剣だったということです。私にはその真剣さが当時不足していたのだと思います。こうして物事に取り組む姿勢を恩師から学びました

#「続けている」ではなく、「続けられている」という意味は

続けている → 自分の気持ちと定義
続けられている → 環境のおかげと定義

結論としては、
環境のおかげで、続けられているということです。

学生時代から続けている野球ですが、私は40歳になった今も続けています。これは、自分の気持ちだけでできていることではありません。そういう考えから、続けられていると表現しています。

・職場にチームがあるから
・家族の理解があるから
・健康であるから
・地域にナイター設備の球場があるから
・高校時代に野球部を辞めなかったから

あらゆる環境に恵まれています。どれひとつかけても、今の野球ライフは送れていません。色々な、要素が重なり社会人23年目も野球を続けられています。
本当に幸せなことです。

#最大の理由とミライ

野球を続けている、最大の理由としては現役プレイヤーである父親の存在があります。私は40歳となりましたが、父親は66歳でなお現役の野球選手です。

昨年は、ひょんなことから猿払代表として18年ぶりに同じユニフォームで戦うことに。
舞台は利尻島の利尻町。
18年前は父親が監督で、昨年は私が監督でした。
ポジションは変わらず、父親がピッチャーで私がキャッチャー

圧倒的大差で敗れはしましたが、本当に良き思い出となりました。ちなみに、長女もマネージャーとして参加。

2019年の記事、宗谷新聞社発行日刊宗谷記事参照

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2001年の記事、宗谷新聞社発行日刊宗谷記事参照

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こんな環境にいるわけで、父親より先に野球を辞めるわけにはいかないのです。
これが、最大の理由としておきましょうw

野球は、年齢を重ねてもできるスポーツです。40歳以上大会、50歳以上の大会、60歳以上の大会など様々です。健康でありさえすれば、ずっと続けられるのです。そして、職域で、地域で交流を深めることができます。

そんな野球、私も元気なうちは続けていきたいと思います。
野球は私の心も身体も育ててくれました。

では、また

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