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おかしいひととの近所付き合い

『嫌われる勇気』が発売されてもう八年も経つのに、自分以外の他人の行動に悩むひとが後を立たない。
みんな「なんであの野郎あんなこと言うんだろう」とため息をついて、ストレスを溜めている。

まったくいいかげんにしてほしい!


他人を変えることは絶対にできない。
この大文字の出だしのように「いいかげんにしろ!」と吠えても物事は微動だにしない。

「みんないいかげんにしてほしい!」とわめいたところで何も起きないのだ。

人間関係で疲れてしまうひとの特徴に「他人に期待しすぎ」というものがある。アドラーの言うとおり、他者を変えることはできず、変えられるのはいつだって自分自身だけだ。

そんな変わった自分を見て、相手が変わることもある。でもそれは相手を変化させるためのアクションではなく、自分自身が行きたい場所に行くためでしかない。

当たり前だけど、みんな全然違う価値観を持っていて、異なる環境にいる。

「じじい!金メダルかじんな!」とキレたところで「かじることは愛情表現」という価値観を持っている男はメダルをかじり続ける。死ぬまでかじりまくるのだ。

じつはその価値観に正解も不正解もない。
どっかの国の、どっかの時間軸では「金メダルをかじってあげること」が最高の礼節になっているかもしれない。

価値観や美的感覚に正しいものはないのに「俺の都合に合わせて生きてほしい」なんて都合の良い話はない。そうしたいなら独裁者になるしかない。それでも他者の深層心理は曲がっていない。仕方なく従っているに過ぎない。

疲れる相手とは適当に距離を置くしかない。ほどほどにやり過ごすのがベストだ。これは「シカトしろ」という話ではなくて、「ここは分かち合えないな」という部分は、スルーして付き合っていくということだ。

アホな上司、気に食わないクラスメイト、愛想の悪い店員、近所に住む爆弾を作っていそうな男。

彼の知能を上げられないし、彼を気にいるように行動もできないし、彼の爆破欲求も静止できない。

ただ、付き合いといっても普通に挨拶したり、へらへらやっていればいいだけだ。
たとえば、近所のコンビニの店員のバックグラウンドを知らなくても、「袋ください」などコミュニケーションが取れる。この程度の話だ。知らないひとだが「付き合い」が成立していると言える。

僕は金メダルをかじる男を気持ち悪いと思っているが、何の因果か彼とサシで食事をすることになったとする。そこで「金メダルをかじるのキモイんで顔面殴っていいすか!?」などと告げる必要はないのだ。

金メダルをかじったことは頭の脇において、表面上の付き合いをすればいい。何の用があるのかは知らないが、適当にメシを食って帰るだろう。

それに注意したり、考え方を変えようとすると波風が立つ。まったく無益だし、逆恨みされて面倒なことになる。
反対に波風を立てたがるひともいる。煽ってくるやつだ。この波風をいちいちサーフしないようにしている。

「誰かに謝らせないと気が済まない」という性質のひとが溢れ返る時代が訪れたが、時勢に乗る必要だってまったくないのだ。

「時代にも他人にも社会にも合わせる必要などまったくない」

適当に付き合うという姿勢の奥底に根ざしておきたいスピリッツだ。


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